敗北を受け入れる勇気 vol.7

前回の続き。

敗北を受け入れる勇気 vol.1

敗北を受け入れる勇気 vol.2

敗北を受け入れる勇気 vol.3

敗北を受け入れる勇気 vol.4

敗北を受け入れる勇気 vol.5

敗北を受け入れる勇気 vol.6

今回は、なぜ自分が、この人生最大級の敗北を受け入れられるようになったのかを考察してみようと思う。

自分が敗北を受け入れるようになった最大の要因はまさに、自分がうつ病になったからだ。自分は、うつ病になるまでは、自分を追い込んだけど、うつ病になってからはそれ以上は頑張れなくなった。がんばらないと、馬鹿にされるかもしれない、見くびられるかもしれない、という状況に追い込まれても、もうそれ以上は働くことができなくなってしまった。その時点で、自分は敗北をある程度は受け入れざるを得ない状況に追い込まれた。

また、うつ病になってから、仕事をセーブすることができるようになったということは、自分の負けず嫌いさや、ネバベキ思考禁忌、強迫もうつ病を上回るほどの強さは持っていなかったということだ。もし、そういう自分の性分が、うつ病を患ってでも働いていたら、おそらく、自分は重度のうつ病、あるいは過労死していただろう。その意味で、最低限、自分の命を大事にする思考は自分の中に育まれていたのだろう。

アメリカに来てから、研究室のみんなが9時5時で帰り(なんならもっと緩い)、土日もほとんど誰もこない状況に置かれてから、自分のうつ病は少しずつ回復していった。しかし、それと同時に、あまりに楽園的な環境に急に身を置かれたせいか、以前の研究室とのギャップから「なんであんな苦しい思いをしなければならなかったんだ、許せない」と怒りの感情と不遇な記憶が常時、頭の中を駆け巡り、誰かにこの思いを吐き出さなければやっていけない状況に追い込まれた。そして実際に自分は誰彼構わず、出会った日本人に、以前の研究室でいかに自分がつらい思いをしたかを一方的に話していた。誰かに話を聞いてもらわないと、自分は生きていけなかった。

そして、その怒りや不遇な記憶は、以前の研究室だけに留まらず、家庭環境にまで及んだ。母の過干渉で、厳しさを押し付ける教育、父の一方的で自分の意見を蔑ろにする教育、そういった幼少期の記憶までもが、日中頭の中で暴れるようになった。

そう、以前の研究室でうつ病に追い込まれるまでに至った経緯は、何も研究室だけの問題ではなかったのだ。そこに対処できなかった自分、そこで自分の感情を表現できなかった自分、そこで張り合ってしまった自分の問題でもあり、そしてそういう自分が形成されたのは、間違いなく高校までの家庭内教育であった。アメリカという日本とは全く異なる環境に身を置くことで、みんなが自分の感情や欲求に従って生きている様を見ることで、「なぜこんな自分に育ってしまったんだろう?」と疑問に感じることが増えたことが、家庭内教育を見直すきっかけになったのだと思う。

せっかくアメリカに来たのに、アンヘドニアで旅行などを楽しむ気にもなれず、そしてあまりに過去の怒りが頭の中で何度もガンガン鳴り響き、そしてあまりにプライベートなことなので、もう知り合いに話を聞いてもらうわけにもいかなくなり、しかし、過去は頭の中で鳴り止まず、もう限界に達した時、自分は血眼になってカウンセラーさんを探し始めた。誰かに話を聞いてもらわないと自分は生きていくことができなかった。

幸いカウンセラーさんはすぐ見つかり、そして早速セッションを始めたもらった。そして自分は「研究室編」「Mちゃん編」「家庭環境編」の三つの文章を、これまで30年間、誰にも話すことができず、ためにためた怒りや不満を全部書き記した10万字にも及ぶ文章を、ものすごい勢いで書き上げて、カウンセラーさんに提出した。今同じことをやれと言われてもできない。それは、溜まりに溜まった怒りのダムが決壊するかの如く、自然と大量の文字数が紙面へとものすごい勢いで滲み出ていった。

そこからは頭の中での過去の大合唱が、だいぶ大人しくなった。思えば、自分は、自分の悩みを、特に自分のヴァルネラビリティーに関わる悩みを誰かに聞いてもらうということが30年間で一度もなかった。

過去の大整理大会が終わってからも、自分はカウンセリングに通い、少しずつ、生きづらい自分というのを変容させることに成功している。またカウンセリングと並行して、メンタルヘルスのための本もたくさん読んだ。それによって今まで禁忌となって、ほとんどできなかった言動が、依然として苦手ではあるが、少しずつできるようになっている。以前はゼロだったのが少なくともイチにはなっている。

できるようになったことを、リスト化してみよう。

  • 人の悪口や噂話を言えるようになった(「人の悪口を言うな」と父から強く教わり、自分はこの歳になるまで、ほとんど人の悪口を言わなかった、あるいは言うことができなかった。それは決して、人に対して怒りを感じないわけでなく、怒りを感じても、それを自分の中で押し殺すしかできなかった。「悪口を言ってはいけない」と言う幼少期に培った強い禁忌によって。この感情を押し殺すことを善とする家庭内教育が、自分がうつ病になるに至った最大限の要因であるような気がする)
  • 野菜を選べるようになった
  • 食べ物を残せるようになった(母は食べ物を残すと機嫌が極端に悪くなったため、自分はどんだけ満腹であろうと、休み休み時間をかけて食事を完食していた。「自分の限界を超えても頑張る」という感覚を善とする原点はここにあるような気がする)
  • 職業、年齢、パートナーの有無など、人のヴァルネラビリティーに関わる部分に触れられるようになった(自分は友人とかにも「彼女いるの?」と聞いたことがなかった。というか聞くことができなかった。その他、年齢とか、職業とか、学歴とか、聞いたら相手を傷つけてしまいそうな、相手の気分を害してしまいそうな内容を相手に尋ねることができなかった。それは悪いことではないと思うが、ただこれを徹底すると、あまりにも会話の内容が深まらない。それに加えて、他の人は聞けているのに、なぜ自分は聞けないのだろうか?という違和感をずっと感じていた。今は、相手のタフネスさを信頼して少し聞けるようになった。そんなことを聞いただけで関係性は終わらないと信じて。)
  • 自分の限界を超えてまで、責任を全うしないようになった。
  • 自分の限界を超えてまで、人の期待に応えないようになった(また、自分には「自分がこんなに一生懸命期待に応えているのだから、相手もその期待に応えるべきだ」という恩着せがましい考えがあった。でも、いくら相手に尽くしても、それと同じだけの熱量で相手が自分に尽くしてくれるということはほとんどなかった。そんなことを何百回と繰り返して、どこかで線が切れて、自分は「ありがとうで満足できること以上のことを相手にしない」ということを心がけるようになった。例えば、100万円を人にあげて「ありがとう」だけで済まされたら、流石に納得できないだろう。過去の自分は、100円を求めている人に勝手に人に100万円をあげて、100万円の見返りを求めるようなことをしていた。)
  • 母親に反抗できるようになった。
  • 自分の見た目を自虐できるようになった。
  • 特に罪悪感なく、テレビゲームで遊べるようになった
  • 嫌われる勇気を、自分の好きな人にも向けられるようになった。
  • 自分のためにたくさんお金を使えるようになった。

特に、以前実家に帰省した際に、面と向かって母親に反抗できたことが、自分にとって非常に有効だったと感じている。日本の研究室にいる時も、アメリカに来たとも、自分の頭の中には常に自分を注意して叱ってくる母親がいて、なかなか自分を休ませてくれなかった。母は常にテキパキしていて、もたもたしている自分を見ると不機嫌になった。

そして、自分がうつ病になってからも、最後の最後までそれを認めてくれなかったのも母親だった。いくら自分のつらい状況を伝えても「社会なんてそんなもんだ、みんな同じくらい苦しんでいる」と苦しみをディスカウントされて、息子がダメになってしまったことを認めようとしなかった。母は誰よりも負けず嫌いで、家にお金もないのに、その割に子育てで、よその家庭と競い合ってしまう性分だった。そんな母にとって、博士号まで取得して、海外にポスドクに行った息子がダメになってしまうということは恐怖でしかなかったのだろう。

ある冬、実家に帰省した自分は、母に思いっきり反抗した。母は父の実家に行くときに必ずイライラし始めて、そのイライラを自分にぶつけた。子供の頃は、母が不機嫌になると、家族の雰囲気が悪くなり、自分はそれがいやで、なんとか母の機嫌を崩すまいと、母の期待を先回りして読んで行動していた。でも、その時は「うるさいんじゃ、ボケェええ!!!」と思いっきりキレた。多分、そんなことは人生で初めてだった。自分の思春期には反抗期がなかった。両親とも、子供が反抗するよりはるかに強い怒りで子供を押さえつけていた。そして、母に関しては、怒っても子供が言うことを聞かない場合、実際に涙を流して、泣き落としにかかった。そんな感情的にめんどくさくて、揺れうごきが激しい両親だったからこそ、子供たちは波風を立たせないようにおとなしくしていた。でももう自分も大人である。母が怒ろうが泣こうが、自分でご飯を作って食べることができる。もう関係ない。自分としても一歩踏み込んだ勇気のある行動だった。

そこから自分の中で、加速度的に親離れが進んだ。そして、頭の中でオートで注意してくる母親もいなくなった。

これは持論だが、”カウンセリングというのは、良すぎる人間が悪人になるプロセス“だと思っている。人の悪口は言わない方がいい人間だし、食べ物を残さない方がいい人間だと、世間では評価される。でも、自分の感情に抗ってまで、いい人間であるということは続けられないのだ。この世の中は善悪の彼岸にあるのだ。究極的な善人として生きることを強要された自分は、感情の捌け口が見つけられずに、うつ病になり、そして、今、自分が生きやすいように、少しずつ悪人になっている。

一方で、これらの禁忌を自分の中から取り除く作業は、自分にとって紛れもない敗北だった。なぜなら、明確に前言撤回をしているからだ。過去の言動と一致しないことをすることに人間というのは厳しい。「お前、ああ言ってたじゃん!あれ嘘なの?嘘つきなの?」と。人によっては容赦無く嘘つき呼ばわりしてくる。

過去の自分は確かに、人の悪口を言う人をよく思っていなかったし、ご飯は残すべきじゃないと、これらのリスト化した禁忌を全て正しいと確信して、何も疑わずに実行していた。でも、自分の心が持たなくなって、一つずつ禁忌を諦めていって、過去の自分の信念と180度、違う行動をとっている。禁忌を破るのには、その都度、罪悪感と勇気が伴ったが、カウンセラーさんと、そして自分を信じる心と共に、少しずつ禁忌を破っていった。前言撤回し、過去の信念を守りきれなかったという意味で、自分はここ数年で数多くの敗北を経験してきた。

でも、新しい自分に出会えるというのは、ある意味で勝利とも言えるのかな?

そして、これらの禁忌を多く破る過程で気づいたことがある。それは、こんなに変わっても、なお自分は自分で、そして人から見放されることなく、社会の中で生き続けているということだ。前よりも圧倒的に楽に生きれているのに加えて、意外とというか、全然人からも嫌われず、依然として「優しい」という評価を得る。

「優しい」というのは自分が物心ついた頃から、家族から、先生から、友達から共通して褒められる、自分の誇らしい長所であった。しかし、いつしか自分の強迫的な性格とともに、「優しさ」は長所から義務へと変わった。リスト化した禁忌も「優しさ」と結びついているということがわかるだろう。そして、過去の自分は、この禁忌を一つでも犯せば、自分の中から「優しい」という評価が排除され、そして「嫌われる」と盲信していた。だから、うつ病になってから、この禁忌を一つずつ破るたびに、自分は「嫌われるかもしれない」という恐怖心と、少なからず戦っていた。

自分の読書は「嫌われる勇気」からスタートし、そのおかげで、自分の状況というのも客観的に捉えることができていた。そして、自分は「嫌われる勇気」を持って禁忌を一つずつ破っていった。

「これ以上、うつ病で自分の体を痛めつけるのなら、人から嫌われる方を選ぶ」

そういう思いもあった。最後の最後で、自分は自分の生命を優先することができた。

今回、「アカデミックを辞める」という最大の敗北を受け入れられるようになったのは、ここ数年で、少しずつ小さい敗北を受け入れ続けて、そして、自分を変容させることに楽しみを覚えるようになったからだ。

「この禁忌を犯せば、自分が自分でなくる。自分のアイデンティティーが崩壊する」と思っていたけど、いくら禁忌を犯しても、自分は崩壊せず、その都度新しい自分に出会えた。だからアカデミックをやめても、その敗北は、この10年以上の時間がかかった、途方もない敗北だけど、それでも、自分は自分として依然と存在し、そして新しい自分も意外とイケるやつかもしれないと、心のどこかでそう信じているのだと思う。

つづく

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