敗北を受け入れる勇気 vol.3

前回の続き

敗北を受け入れる勇気 vol.1

敗北を受け入れる勇気 vol.2

先輩が去ってから、自分はこれ以上「どっちが遅くまで残るか勝負」をする必要がなくなった。自分は流石にその勝負を、悪しき風習を後輩に仕掛けるつもりはなかった。何より、自分がそれ以上遅くまで研究室に残りたくなかった。先輩がいなくなってすぐに11時には帰るようになり、そこから一年以内の間に、9時から10時の間には帰るようになった。それでも今と比べると十二分過ぎるくらい遅いのだが。今の職場では、自分も含めみんな5時から7時の間には帰宅している。

しかし、もううつ病の兆しが見えたのか、10時くらいに家に着いても、深夜2時まで寝付くことができなかった。生活習慣がすっかり悪い方向で固まってしまっていたのだ。この「2時まで寝ることができない病」はアメリカに来てからも続き、寛解してきたのは本当につい最近のことだ。自分は10年近く深夜2時までに寝ることができなくなってしまったのだ。

先輩が去って、自分が最年長になった。この頃もキツかったのだが、峻烈な「深夜まで残り大会」が開催されていた頃に比べると、幾分かは楽になった。

先輩が去ってから、先輩の実験結果に関して、とある疑惑が生じ始めた。後輩がいくら再現実験をしても、再現が取れないのだ。また、先輩が残していったラボノートを見返しても、変な箇所がたくさんあった。

まず、当時先輩がしていた大量の実験量に対して、残された生データが異様に少なかったのだ。学部から博士まで合計6年くらいいたのに、そして、毎日たくさん実験していたのに、残された実験ノートが2冊程度だったのだ。そして、残されたノートにも日付と結果くらいしか書いていなくて、どういうプロトコールで実験がなされたのか、判別することがほぼ不可能だった。

残されたノートが少ないから、先輩の残したプロジェクトを再開するのはかなり難しく、また過去に論文発表されたデータに関しても、後輩は再現を取ることができなかった。

しかし、そのことを後輩が教授に告げても「先輩が間違うはずないだろ。君の実験の腕が悪いから再現が取れないんだ」と後輩の主張を教授が受け入れることはなかった。その先輩は研究室の歴史の中でも、もっとも優秀だった学生として、教授からお墨付きをもらっていて、先輩が在籍時もそして先輩が去ってからも「みんな先輩を見習うように。みんな先輩みたいな研究者になるように」と教授は在籍メンバーに対して言っていた。いわば先輩は「神格化」された存在だったのだ。その先輩を否定することは、すなわち研究室の秩序の崩壊を意味していた。教授も、もしかすると実情をわかっていたのかもしれないけど、そういう手前、後輩の主張を受け入れることはなかった。

いくら注意深く実験しても、データが教授に受け入れられることがなく、次第に後輩は病んでいき、研究室に来れなくなってきた。先輩が去った後、自分はその後輩と仲良くなったのだが、ストレスからか、後輩は自分に対しても怒りをぶつけるようになり、あまり喋らないようになってしまった。

そのあたりから、自分の先輩への感情は怒りに義憤が混じったような、物凄く強いものになっていった。

先輩がいた頃は、自分を冷淡にあしらったり、後輩や教授に自分のネガティブキャンペーンを実施して、自分を孤立するように仕向けたりと、意地悪をしてくる先輩への単純な個人的な怒りだった。しかし、先輩の研究に対する杜撰な態度を目の当たりにしてからは、研究者としての先輩への軽蔑とともに、自分の好きな後輩を苦しめるに至った諸悪の根源として、仕事面(研究)から見た怒りへと変わっていった。意地悪されながらも、教授が先輩を神格化したように、実際優れた論文を複数本残すという偉業も成し遂げていたので、仕事面においては尊敬していた部分もあったのだ。実際、意地悪されながらも、自分は先輩に恥をかかせないように、みんなの前で顔をたて、送別会も最後の三次会まで参加し、色々ちゃんとしてきたつもりだった。

それが、仕事面でもひどかったのかよと。単に嫌な先輩から、許されざる、滅ぼさなければならない悪へと存在が変わった。

先輩が去ってしばらく立った頃、自分は恋愛におけるプライベートな問題が引き金となり、完全にうつ病を発症してしまった。その頃はまだうつ病だとは自覚していなかったが、振り返るとうつ病の急性期だった。その日を境に明け方の希死念慮を抱くようになってしまい、動機、理由の不明瞭な焦燥感、絶望感、何もないところでの頻繁なつまづき、吐き気、その他さまざまな症状を伴うようになった。

自分の希死念慮を徹底的に文章化してみる

そのあたりから、後輩だけでなく、自分も研究室に朝から行けなくなった。教授から侮蔑の目で見られるというのがわかっていながらも、自分は朝起きることができなくなってしまった。そこから卒業まで、死んだ魚のような目をしながら、研究への情熱の燃えかすだけで生きていた。何もかも終わってしまってほしかった。人類なんて隕石が落ちて滅亡してしまえと思っていた。

卒業後、しばらくたって、自分は今の研究室に留学することができた。在籍していた研究室も予算の切れ目で、自分は職探しをしなくてはならなかった。限界の中で生きていたけど、留学の夢だけは諦めることができず、エネルギーの搾りかすみたいなもので書いたメールですんなりと留学を決めることができた。僥倖としか言いようがなかった。

命からがらたどり着いたアメリカの今の職場は楽園そのものだった。みんなが健康的な生活を送りながら研究し、悪口も陰口も叩かれず、みんなの輪の中に自分を入れてくれた。そんな友愛的で平和的な職場にもかかわらず(だからこそというべきか)、研究業績も一流なのだ。自分は特に優れもせず、劣りもせず、英語が研究室で一番喋れないアジアン陰キャだけど、それでも普通に人としての尊厳を保ったまま接してくれる。これを当たり前のこととしていいのか(当たり前であって欲しいけど)、自分はいまだに疑問に思っている。

アメリカに来てしばらくが経った頃から、自分の前の教授や先輩への感情は、怒りからトラウマ的な恐怖へと変わっていった。日本にいた頃は、毎日朝から晩まで長時間顔を合わせていて、特にそれに関しては問題がなかったのに、時折教授からメールが来たり、先輩の活躍を耳にしたりすると、動悸が早まり、食事が喉を通らなくなったりするようになった。軽いPTSDのような感じだ。

なぜだが自分でも不思議だったのだが、以前Twitterで、自分と似たような症例を見かけた。それは虐待サバイバーの方のツイートで、正確には覚えていないが、内容はこんな感じだった。

虐待を受けている時はそうでもないのに、虐待元を離れることができた後に、虐待者に対して異様な恐怖心を感じるようになる。それは虐待時に生き残るために本能的に麻痺させていた感性が、安全な場所に移ることで、麻痺が弱まり、再び感じるようになるからだ。

(ツイートを見つけたので追記します)

自分もきっとそんな感じだったのだろうと思った。冷淡に扱われ、陰でネガティブキャンペーンされることで、努力量に対してどうしても評価が極端に低くなり、自分の好きな後輩も自分のことを嫌うように仕向けられ、自分の大切としていたものが全て奪われてしまう感覚。別に悪いことをしたわけでもないのに、むしろ研究室のために頑張っているのに。そんな可哀想な自分を、在籍時は感情を麻痺させることで、本能的に自分を守っていたのだと思う。前の研究室に対して自分が抱く、最も恐ろしい感覚は「大切なものが奪われてしまう」という感覚だ。

奪われることが当たり前だったのが、楽園に来ることで、奪われるどころか、与えられることが当たり前になり、もう2度とあんな悲しくて怖い思いはしたくないと思った。そういう思いをするくらいなら研究者ごとやめてやると。

そういうふうにして、自分の中に形成されてしまった「軽度PTSDを伴うトラウマ的恐怖心」を抱えながらも、自分はそこから数年間、コロナ禍を挟みながらも悠々とこの楽園を満喫している。PTSDも、教授とのメールがあるのも年に片手で数える以下で、なおかつカウンセリングにも通い、自分のケアもしっかりとしているので、そんなに問題ない。

しかし、楽園も永遠には続かず、任期が迫り、またあの怖くて忌まわしい日本に帰らなくてはならない。

つづく

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