敗北を受け入れる勇気 vol.4

前回の続き。

敗北を受け入れる勇気 vol.1

敗北を受け入れる勇気 vol.2

敗北を受け入れる勇気 vol. 3

今年の4月から6月にかけて、自分は日本に帰るために、とある申請書を書いていた。それは競争的な助教のポジションで、採択されると、任期付きだが、研究費が少し出て、準PIポジションで活躍できるというものであった。

自分のトラウマが形成された日本のアカデミック業界に再び向き合うというのは、自分にとって尋常じゃないくらいのストレスであったが、自分には「研究者として生きていくためには、やはり申請書を書くべき」という考えがあり、「きっとつらいのは今だけなはず」と思って申請書を書いていた。

しかし、その申請書を提出するためには、その大学の受け入れ先研究室の許諾が無ければならない、ということを申請書を書いている途中に気がついた。それはつまり、その大学の知らない教授にこちらから連絡して、受け入れをお願いしなければならないということだった。

そのあたりで、自分のPTSD的なものが発動してしまった。出身研究室の支配的な教授のもとで何年間も自分を抑えながら耐え抜いた、怒りと恐怖が入り混じった不思議な感覚がありありと思い出されて、自分はパニックで、食事が喉を通らなくなり、動悸がし、吐き気がし、夜眠れなくなった。

「また怖い人だったらどうしよう。もう耐えられない。」

「こんな突拍子もない研究内容で受け入れてもらえるはずがない。」

「前の教授に連絡しなきゃダメなんだろうか。そんなところ行くなら自分の研究室に帰って来いって言われる気がする。嫌だ。怖い。絶対行きたくない。」

「申請書を提出するまでに、そして面接までに、どれほどのやりとりをしなきゃ行けないんだろう。締め切りまでそんなに時間がない。もう自分はフルスピードを出すことができないし、数ヶ月間もしたくないことのために頑張れない」

「そもそも、任期付きで自分の研究室が持てるわけでもないのに、そんなポジションのためにそんなに頑張れない」

いろいろな記憶、ネガティブな予測、悪いことが起きそうな不安が頭を駆け巡った。

自分は夜中1人、本当に涙を流して泣いてしまった。それは怖さに加えて、悔しさや、やるせなさが混ざった涙だった。いったいなぜ、自分は「自分が生まれた国に帰るという当然の権利」を行使するのに、こんなに苦しまなきゃいけないんだろうという不公平さからくる悲しさ。いじめていた教授や先輩は生き生きと暮らしているのに、いったいなぜ自分はカウンセリングに通いながら、何年もうつ病と闘病する羽目になってしまったのだろう。

ストレスで、気づいたら久しぶりに母親に電話していた。そういえば、日本にいる頃は研究室がつらくてしょっちゅう母親に電話していたっけ。何を話したか覚えていないけど、このことは伝えた。

「こんなに不安定な職業を選んでしまってごめん」と。

それから「何日か過ごしたら、症状もよくなるかな?」と淡い期待を抱きながら、魂を殺しながら申請書の続きを書いていたけど、ここしばらくずっとなかった明け方の希死念慮が再発してしまった。そして、ある朝自分は決意した。

「アカデミック研究者を辞める」と。

つづく

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする