禁忌を破れない人たち

昨年のカウンセリングでは「禁忌(きんき)」というのが一つのテーマであった。

もしかしたら、意味を知っている人もたくさんいるのかもしれないが、「禁忌」とはgoo辞書によると「忌 (い) み嫌って、慣習的に禁止したり避けたりすること。また、そのもの。タブー。」とある。

禁忌という言葉を使う場面は日常でよくあり、状況によってその意味も微妙に異なるだろうが、自分がカウンセラーさんから教わったのは「自分の中にある、破ることができない自分ルール」という意味合いである。「自分の脳の中にある縛りとなっているもの」とも言うことができると思う。

「禁忌」は別に法律ではないので、禁忌を破っても実際のところ問題はない。けれど、「自分の中でこれだけは破ってはダメなルール」というのは意外と多くの人が持っているのではないかと思う。時に禁忌は自分の成長のために必要だったり、また個人の個性を作ったりするが、強すぎたり、不必要だったりする禁忌は生きづらさの元にもなる。

禁忌が強い人の中には、周囲の人を自分の禁忌の中に巻き込んでしまう場合がある。巻き込まれる相手は家族だったり同僚だったり、かなり距離が近い場合が多い。本人としては「守るべきルール」が他人にとっては「どちらでもOK」だったりする。そして、「相手に自分の禁忌を守ること」を強要してしまうが、相手にとってはその禁忌を守ることが非常に難しかったり、必要性を感じられなかったりする。だから、衝突が生まれ、対人関係の亀裂の元になる。

良好な対人関係を築くためには、その強い禁忌を本人が破ることが必要なのだが、長年かけて培った禁忌を破ることは、あたかも過去の自分全てを否定するかのようにも感じられ、多大な勇気が必要で実行が難しい。

今回は、自分が経験してきた、母親と前の研究室の教授と自分の3人の禁忌をまとめてみようと思う。

家事を完璧にしなくてはいけない母親とそれに巻き込まれる妹

これは自分の母親の話である。母は少し完璧主義で強迫的なパーソナリティーであり、少しの失敗を非常に恐れて、実際に失敗すると、はたから見れば些細なことなのに、この世の終わりかのような顔をする。

母は家族を非常に愛する人で、また家事を完璧にこなすことができる。幼い頃から、母が家事に関して手を抜いているところを見たことがない。料理も3食かつ毎食ほぼ違うものが出てきて、自分が大学入学時に家を出るまで、外食というのをほとんどしたことがなかった。それくらい、かなりテキパキと早く精度良く家事をこなせる人なのだ。実際「テキパキ」が口癖だった。

一方の妹はそういうことが全体的に苦手であった。母と一緒に家事を始めても、ほぼ全てを母が素早く終わらせてしまうのだ。母は「待てない人」でもあった。子供の成長のために、多少は手加減してあげればいいものの「テキパキ家事をこなさなくてはならない」という禁忌を自分自身で破ることができないのだ。

妹が社会人になって仕事を始めてから、母と妹の間で揉め事が増えた。妹の職場はハードな部類で、帰宅後、ご飯を食べた後はほぼ何もできず、グデーっとしてしまうのだ。

母は妹の大変さも理解していたので、家事を手伝ってくれとは言わなかったものの、必要最低限のことはしてほしく、そのことでよく揉めていた。母が妹の洗濯物を畳んで、妹の部屋に持って行き「あとは自分でしまってね」と妹に言う。ところが、何日経っても妹は洗濯物を引き出しにしまわない。そして、いつまで経ってもしまわれない洗濯物は母親にとって見ることがストレスになり、何日か我慢した後、母親自身で妹の引き出しにしまってしまう。

「きちんと家事をしなくてはいけない」という禁忌がある母からすれば、いつまで経っても片付けられない洗濯物はストレスの元だが、その禁忌がない妹にとっては別にストレスではない。そこは妹の部屋だし、妹が洗濯物を出しっぱなしでOKならそれでOKなのだ。

母の言うことは決して間違っていないのだ。洗濯物は引き出しに片付けたほうが、部屋も綺麗だし、可能ならそっちの方がいいのだろう。でも、妹は仕事で疲弊していて、それができない。はたから見れば「洗濯物を引き出しにしまう」という簡単な行為だが、妹にとってみれば、それは中々に困難なことなのだ。

これは持論だが「しない、やらない、できない」の区別は非常に難しいと思っている。できる人からすれば、「あの人はなぜそんな簡単なことをしないんだ」と思うが、当人からするとそれは「できない」ことに近いのだ。人間というのは見かけ以上に異なるように設計されている。

自分から見ると、母親自身がもう少し「家事をきちんとこなさなくてはいけない」という禁忌を破ることができれば、もっと楽になれるのにと思っていた。つまり「母親自身」がもう少し家事を緩めてもOKと自分に許可を与えると言うことだ。そうすれば、妹にもそれを強要しなくなるし、関係ももう少しよくなるのではないかと思っていた。母がそこまでしつこく、家事について妹に要求したのは「実際に自分はきちんとやっている」という事実からくる裏付けがあったのだ。別に妹が母に洗濯物を畳んで部屋まで持ってくるように頼んでいるわけではないのだ。例えば、妹の洗濯物を畳まずに部屋に放り込んでいても、妹は文句を言わなかったとだろう。

実際に妹が実家を出るまで、母は妹にしつこく言い続けて、でも妹はできずに、屁理屈で母親に反論し続けていた。それ以外の部分で親子関係に問題があったわけではなく、今も家族関係は良好の部類なのだが。母は結局自分の禁忌を破ることができずに、今も強い縛りの元に行動し続けている。

ワーカホリックな教授とそれに巻き込まれる学生

前の研究室の教授は典型的なワーカホリックだった。教授という安定したポジションを獲得した後も、毎日朝から深夜まで、激しく働いていた。

数年間、教授を観察してわかったのは、彼も「競争に負けないために、死に物狂いで働かなくてはならない」という禁忌に縛られていたということだ。そして、その禁忌は自己完結せず、部下や学生にも及んだ。

母もそうだが、「家事をきちんとしなくてはいけない」とか「死に物狂いで働かなくてはならない」という禁忌を周囲の人間にも要求してしまうのだ。自己完結してくれれば、特に対人的な問題は生じないのだが、他者に自分の禁忌を強要すると、どうしても対立が生じてしまう。

その教授はよく「自分より早く帰るな」とか「自分が働いている間は休むな」などと言っていた。そして「自分は才能がないから、才能がある奴らに負けないために、彼らよりも長い時間働いた。でも、あなた達は私よりも才能がないのに、私以上に働こうとしない。そんなんじゃポジションを獲得できないぞ?大成しないぞ?」とことあるごとに言っていた。

厄介なのは実際にその教授が、それくらい働けてしまうということだ。もし、当人は全然働かないのに、部下にだけ労働を強要するという場合は、部下も比較的反発しやすいのだが、実際に当人にそこまで働かれると、部下もプレッシャーを感じ働かざるを得ない。

母親もそうだった。母は実際に家事を完璧にこなすことができてしまうのだった。そのことがより一層、妹にもストレスを与えていたと思う。強迫的な禁忌に支配されていることが当たり前の人間というのは、常人では考えられないことを達成できてしまう。

最初は部下も頑張るのだが、もちろんほとんどの人がそんな体力あるわけもなく、どこかで折れてしまう。でも教授は自分の禁忌を緩めてくれない。だから、最終的には部下や学生が研究室から離れていくことになってしまう。

禁忌を他人にも要求してしまう人は、心のどこかで「自分はこんなに無理して頑張っているのに!」と思っているのだと思う。他人からすると「じゃあ、少し手をぬけばいいじゃないですか?別にこっちが頼んでいるわけではありません!」という感じなのだが、母も教授もそれができなかった。

対人関係に誠実すぎる自分とそれに巻き込まれる友人

最後に自分にとって禁忌となっていることもまとめようと思う。

自分の禁忌は「誠実な人間でなければならない」である。また「相手の期待を裏切ってはいけない」というのも禁忌になっているだろう。

「誠実な人間であること」や「他者の期待に応えること」は人生において悪い要素ではないのだが、それが禁忌となり強迫的になり度が過ぎれば、生きづらさを生んでしまう。何事も過ぎたるは及ばざるがごとしである。

自分は人との約束を破ったことがなかったし、どんな厄介なメールも無視したことがなかった。でも、友人らは自分との約束を時にドタキャンしたし、メールを無視されることも多かった。

そんな時に「自分はこんなに誠実に対応しているのに、なぜ向こうは相応の対応をしてくれないのだ!不公平だ!」という思いが必ずと言っていいほどよぎった。でも、いくら不誠実な対応を取られようとも、自分は友人に仕返しをすることはなかった。「誠実でなければならない」という脳の中にへばりついている禁忌を破ることができなかったのだ。

最もこの禁忌が厄介な場面は恋愛においてだった。自分は「2人同時に好きな人を作る」ことも不誠実なことに感じられた。だから、ある女性にアプローチして、脈がない場合でも、なぜか「他に好きな人を作るのはダメなこと」と思い、しっかりとした「ノー」の答えが出るまで、アプローチし続けた。その「ノー」がもらえない限り、次に行けないのだ。

普通の感覚なら、脈なしなら、他の女性に当たるのだ。しっかりとした「ノー」を言わせるというのは、女性側からしても負担なのだ。でも当時の自分は「こっちがこれほど真摯にアプローチしているのだから、少なくともイエスのノーくらいははっきりと表明して、あなたもその気持ちに応えるべきだ」という考えに支配されていた。「誠実でいなければいけない」という禁忌に知らず知らずの間に相手を巻き込んでいたのだ。

仕事においても、プライベートにおいても「誠実でなければいけない」という禁忌から逃れられなかった。上司の命令はどんな無理難題でも従わなければ「誠実」でないし、恋愛においては1人の女性に渾身のストレートを投げ込まなければ「誠実」でなかった。

他人の期待には全て全力で応えるけど、自分の期待には誰も応えてくれない。そんなことを数年間繰り返して、ついにうつ病になった。脳が限界だった。

カウンセリングを通じて、うつ病の寛解に取り組み、今は少し「誠実さ」をセーブできるようになってきたと思う。そうすると、他人にもそこまでの「誠実さ」を求めずにすむ。それは、今まで努力して培ってきた「誠実である自分」を全否定するかのようで、腸が千切れるかのようなつらさがあったが、うつ病を治癒し社会生活を営むためには、その「過剰に誠実な自分」を見限るしかなかった。

相変わらず恋人はできないが、今は前よりは楽に生きられている気がする。1人の人間に固執しなくなった分、人付き合いが増えて、うまくいく場合、うまくいかない場合、色々なデータが頭の中に蓄積され、少しづつ人付き合いが上手くなりつつあると思う。

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