「この経験がいずれ何かの役に立つ」という発想の危険性

今日は早めに帰ってきたのでブログを書く時間がある。いつか書こうと思っていた、「この経験がいずれ何かの役に立つ」という発想の危険性について書いてみようと思う。

「この経験がいずれ何かの役に立つ」というのは、思春期の頃によく聞いていたように思う。学校の先生がよく言っていたのか、はたまた学生の間で自然と口に出されるようになったのか、覚えてないけど、確かに大学生とか社会人になってからはあまり聞かなくなった。それは、社会人というのがまさに、「この経験がいずれ何かの役に立つ」の「いずれ」にあたる将来そのもので、社会人になってから「この経験がいずれ何かの役に立つ」と言われても、「それっていつ?今が”いずれ”なんじゃないの?」とあまりピンとこないからかな。

自分とは別の視点からであるが、この言葉に関して論じていたブログを見つけたので、備忘録として。

僕は「この経験がきっと将来役に立つから」という言葉が大嫌いだ

何となくだが、将来のことが不安で、常時焦っている、受験競争やら部活やらで大変な中高生に対して、生み出された言葉なんじゃないかと思う。何をしていいかわからない、正解が欲しい、でも時間は限られている、そんな中高生にとって「この経験がいずれ何かの役に立つ」という言葉を大人にかけてもらうことは、激動の思春期を過ごす上で、大きな慰めやストレスの緩和になるのではないかと思う。

かくいう自分も、心のどこかで、常にこの言葉を感じながら、思春期を過ごしてきたと思う。しかし、社会人になり、激務の果てにうつ病を経験した今だからこそ、この「この経験がいずれ何かの役に立つ」という考え方は危険にも感じられてきた。それに関して、まとめてみる。

役に立つ可能性が微塵もないことはやらなくなる。経験不足に陥る。

「この経験がいずれ何かの役に立つ」という言葉は裏を返せば、「全ての経験は将来のためにある」ということを言っているように思える。全ての経験が「自分の将来像」までの一本道に全てつながっていて、それ以外の道がない。

つまり、「今現在の自分」というのがどこか軽んじられているのだ。思春期という貴重な時期に、常に将来のことばかりを考え、10代という貴重な時間を享受することに集中せずに、それを終えてしまうのは非常にもったいないことだと思う。

別に将来、何の役に立たなくたっていい。今が楽しい、美味しい、悲しい、ムカつく、色々な感情を、目一杯感じて、それで完結していれば、それでいい。その経験をわざわざ自分の将来像に結びつける必要はない。思春期なんて一瞬の貴重な物なんだから、将来のことばかり考えず、今を全力で享受すればいい。

過去に別の記事でも書いたが、人生には享受する側面と成し遂げる側面があるが、「この経験がいずれ何かの役に立つ」という発想は、成し遂げる側面に焦点が行きがちで、享受する側面にライトが当たっていないのだ。

人生には”成し遂げる”側面と”享受する”側面の両方が存在する

高校を卒業し、大学に入ったり社会人になったりして、選択の幅がうんと拡がってから「この経験がいずれ何かの役に立つ」という発想のままでいると、全く役に立ちそうにないことを無意識に避けるようになる。

この言葉で中高生は誤魔化す事ができても、大人になってある程度、人生経験を積むと、経験の全てが何らかの役に立つ、なんてことはない、ということがわかる。そうなると、自然と無意識に、今後の役に立ちそうなことだけにフォーカスするようになる。

結果、経験の幅が大いに不足する

自分がまさにそうだった。研究者になることばかりを考え、趣味とか休暇とか役立ちそうにないものを避けていた。その結果、うつ病になり、5年以上もハンデキャップを抱えながら過ごす羽目になった。

逆説的な言い方だが、「この経験がいずれ何かの役に立つ」という発想を捨てた方が、将来の役に立つ。

人生はマラソンというが、それもちょっと違うと思う。マラソンだと、42.195kmのタイムを競い合うが、人生というはタイムを競うのではなく、何km走ることができたかを、自分と競うのだ。

役に立たないこともたくさんして、しっかり楽しいんで、目一杯享受して、自分をいたわって、サボらせてあげながら走った方が、結果として、ドロップアウトせずに、より長い距離を走る事ができるんじゃないかな。

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