見た目のコンプレックスを解きほぐすための本を5冊紹介

はじめに。自分の見た目について。

2020年はカウンセリング活動の中で自分の見た目へのコンプレックスを解きほぐすことに力を入れた1年であった。思春期から15年以上誰にも打ち明けず、自分の中で熟成してきた見た目に対する悩みがどれくらい解決したかは、自分自身いまだに自信がないのだが、自分の見た目について客観的に記述できるくらいは受け入れられたのかと思う。

「コンプレックスと劣等感は異なる」ということは、かの有名な「嫌われる勇気」で学んだ。正確な意味は未だに理解し難いが、劣等感は単に「劣っている」と感じることで、コンプレックスは劣等感が複雑(complex)に自分の脳に絡みつき、劣等感が原因で行動や言動に支障をきたしてしまうことを言うのだと理解している。その意味で自分が見た目に対して抱いていたものは、劣等感を通り越して確実にコンプレックスになっていた。勉強が手につかないくらい自分の見た目に対して悶々と悩み、プリクラや集合写真を撮る機会を徹底的に避けたりしていた。とにかく他人から見た目を指摘されるのが怖くて、見た目を指摘される可能性を自分なりに徹底的に排除していた。

自分の見た目のコンプレックスはずばり「顔がでかい」である。もちろん、それ以外の部分が秀でているかと言われれば、パーツも整ってないし、足も短いし、前髪は薄くなってきているし、全く平均以下なのだが(唯一歯並びだけはいい)、それらは未だに「劣等感」に留まっており、それらが自分の行動に影響する事はない。ただ、「顔が圧倒的にでかい」と言うことだけは、中学の頃から完全にコンプレックスになっていて、その思いを15年近く誰にも話せずに、打ち明ける勇気が出ずに、1人で熟成させていた。「顔さえ平均的なサイズなら、きっと彼女できるのになあ」とずっと思って生きてきた。

ブスとかブサイクというのは、人によって基準が異なるし、曖昧な表現である。例えばAKBグループの指原さんなどがよく自分のことをブスというが、どう見ても美人で可愛い。見た目を形容する言葉の中には、このように「ブス、ブサイク、イケメン、カワイイ」みたいに基準が曖昧なものがある。

一方で見た目を形容する言葉には相対的にあるいは絶対的に数値化できてしまう基準というのがあるのだ。背が低い高い、顔がデカい小さい、ホクロが多い少ない、色が濃い薄い、目が大きい小さい、鼻が高い低いなどなど、数え上げたらキリがない。

思春期の頃にこういう数値化できる指標で、友人あるいは意地悪な人から、見た目を中傷される事は多く、そしてそれは数値化可能な事実であるがゆえ、言い返すことが難しく、心の深い部分にダメージを残す。

また、いろいろなステータスの中で唯一見た目だけは嘘をつけない。学歴もスポーツや恋愛での過去の栄光も、ずっとは無理だが当座では嘘でごまかすことができるが、見た目だけは嘘をつくことができず、相手と対面している間ずっと100%嘘偽りのない自分が相手の目の前に表現され続け、そこから逃げることができない。だからこそ見た目のコンプレックスは厄介なのだ。

自分は中学の頃、部活動内で永遠に「顔がデカい」といじられ続けてきた。元来の気の弱さも原因していると思うが、「顔がデカい」というのが紛れもない事実であるがため、言い返すこともできず、言われてもただ押し黙ってやり過ごすこと以外できなかった。中学に入る以前にも「顔が大きい」という事は友達や親から時折、指摘されていたのだが、本当にたまにだったし、それがそこまで気になるという事はなかった。それが中学の部活動では、集団でほぼ毎日休む間も無く、いじめのように「顔がデカい」と罵倒され続けたため、完全に「顔がデカい」ということが恐怖感情と結びついてしまった。

中学を卒業してからは「顔がデカい」といじられる事はなかった。高校で数回、片手で数えられるほどあっただけで、大学以降はほぼゼロだったように思う。それでも、自分の「顔がデカい」というコンプレックスは一向に癒えることがなく、むしろ支配力を増していった。そしてこのコンプレックスは大学以降の「異性にアプローチする」という段階でより大きな力を発揮するようになった。

気になる人とデートしても、相手から自分がどう思われるか、また街を歩いている自分達が周囲からどう映るかということばかりが気になり、そして毎回フラれては自分の見た目を呪った。「顔さえ平均的なサイズであれば」と何度思ったかわからない。自分の写真を見るたびに、まず真っ先に自分の顔の大きさを確認し、小さ目に写れば少し安堵し、大きいと絶望した。

時折、「小さい隙間に友人と順番に顔を突っ込んでいく」という夢を見る。友人らは自分より顔が小さく、その隙間に顔が入るのだが、自分は隙間に顔が入らず、つっかえてしまうのだ。そして、ビクビクしながら自分の番が回って来るのを怯えながら待っているのだ。

このブログを書くにあたって、せっかくなので、下のような精密なメジャーをアマゾンで購入してみた。今までも夜な夜な不安な時に何度、自分の顔の大きさを物差しで測ってきたかわからないが、顔のサイズを1人で測るというのは意外と難しく、正確なサイズはついぞ知らないままだった。この器具では金具で顔を挟むことで、正確な顔のサイズというのをデジタルで教えてくれる。

顔のサイズを測る為に買った。45ドルもした。

結局、これでも本当に正確なサイズ(皮は器具で挟むと凹むので)というのはわからないのだが、自分なりにズルなしで計測してみた。まず、顔の幅は一番広い頬骨の部分で15.8cmあった。ちなみに自分はエラも異様に張っており(父方の祖母と母方の祖父がエラが張っているというダブル隔世遺伝)、エラの部分も14.9cmあった。この頬骨だけでなくエラも張っているというのが顔がでかく見えるという大きな要因なのだ。そして顔の長さは顎から頭頂部まで23.5cmであった。もちろんティッシュ箱よりもでかい。頭囲は60cmである。横幅、縦幅、頭囲、どれをとっても平均を大きく上回っているのだ。そりゃでかいと言われる。

本当に、よく15年間もの長い間、誰にも打ち明けずに1人で抱え込んできたなと思う。今年に入って、初めてこの悩んできたことをカウンセラーさんに文章で打ち明けることができたのだ。

少なくとも自分で認識する限り、自分の30年間の人生でこの「顔がデカい」というのが最大のコンプレックスである。もう一つのコンプレックスが「恋人ができたことがない、素人の女性とセックスしたことがない」ということで、これもまた自分の見た目問題と密接に交わり、コンプレックスと化している。それ以外は特にないと思う。勉強に関してはなぜか得意で博士課程まで進学し、現在も研究者として生きているし、スポーツも得意ではなかったが、社会人になってからスポーツができないことが問題になる事は全くと言っていいほどない。

個人的に、こういう風に「自分の最大のコンプレックス」というのを包み隠さず言語化できるということが、コンプレックス解消のための最初でなおかつ最大の一歩だと思う。人によっては小さなコンプレックスで大きなコンプレックスを隠そうとする人がいる。例えば、本当は背が低いことがコンプレックスなのに、「太っている」ことを自虐のネタにして「背が低い」ということから他者の視線を逸らそうとするみたいに。もちろん、そんな事は個人の自由なのだが、個人的には「最大のコンプレックス」を表現できるということが、やはり一番大切なことなのではないかと思う。

「恥という感情は言語化に弱い」ということをこれから紹介する本で学んだ。その言葉が、自分に自分のコンプレックスを言語化するという勇気を与えてくれ、実際に言語化できると、コンプレックスの支配力も弱まった。もちろん、容姿に対する劣等感は依然としてあるのだが、コンプレックスの状態は解きほぐれつつあるように感じる。

これから紹介する5冊の本は自分が見た目のコンプレックスを解消する為に読んだ本で、どれも不可欠であった。見た目に対するコンプレックスが解消されても、見た目がよくなるわけではない。劣等感は依然としてある。しかし、見た目がよくなる事はなくても、苦しみからは解消される。この15年の苦しみからの解放が自分が生きるのを何倍も楽にしている。

程度の差こそあれ、自分の見た目に対してコンプレックスを抱き、そしてそれが原因で行動にストッパーがかかったり、1人で悶々と悩み苦しんだりしているのは自分だけではないと思う。悩みに対するアプローチは人それぞれ異なり、自分は自分とは異なるアプローチを否定するつもりはない。

それでも、これから紹介する本が、自分を救ってくれたように他の誰かのことも救ってくれたらいいなと思う。

「恥」という感情を理解する

「見た目のコンプレックス」は一見「外面」の問題のようだが、実際のところ半分くらいは「内面」の問題である。外面が原因ではあるが、そのことを自身の内面がどう認知するかというところに問題が生じる。

自分がこれまで15年以上自身の内面にひた隠しにしてきたコンプレックスを今年に入ってから人に伝えたり文章化しようと決意できたのは、次の本を読んだからである。この本では、自分の弱さ「ヴァルネラビリティー」を自分で認めて、表現することにどれほど勇気がいるか、そしてそれが、どれだけ自分を生きやすくするかということが書かれている。

この本の中では「恥」という感情について詳しく解説されている。自分もいろいろな本を読んできたが、意外にも「恥」という感情に焦点を当てて、その感情とどう向かい合うか、どう処理するか、ということを解説している本というのは読んだことがなかった。また探してもこの本以外は見つからなかった。それぐらい「恥」という感情が触れづらいものであるということかもしれない。

恥は、恥ずかしくて口に出せない、という気持ちをエネルギー源とする。だがもし恥についてよく知り、名前をつけ、語りかけるのなら、根っこを絶ったようなものだ。恥は言葉に包まれるのが大嫌いなのである。グレムリンが日光にさらされると死ぬように、恥も言葉にして表現されるとみるみる枯れていく

本当の勇気は「弱さ」を認めること

自分はまさしく、この「恥は言語化すると枯れていく」という言葉に非常に感銘を受け、そして、この本を読んでから、恥ずかしいと感じることをなるべく言語化してしまおうと努めるようになった。基本的には文章でだが、文章で表現したことは口でも表現しやすくなる。見た目以外にも自分はたくさん恥ずかしいと感じる部分があった。パートナーがいないこと、性経験がほとんどないこと、研究者としての業績のこと、そういう個人的に触れづらい弱さ、脆さみたいなものを「ヴァルネラビリティー(直訳すると脆弱性)」と表現し、まず自分がヴァルネラビリティーを抱えていることを認めることの大切さがこの本では書かれている。

筆者は恥の基本について次の3項目を定義している。

1. 誰にでも恥がある。恥は最も普遍的で根源的で人間的な感情の一つである。恥を感じないのは、共感する能力や人と繋がる能力の欠けている人だけである。

2. 恥について話すことに不安を感じない人はいない。

3. 恥について口を閉ざすほど、恥に支配される

本当の勇気は「弱さ」を認めること

おそらく、「はい、じゃあ今日から恥について隠さず口にしていきましょう!」と言っても、仮にそれが恥に支配されない方法だとしても、みんながそれを実行できるわけではないと思う。しかし、それでもこの「恥は言語化に弱い」という鉄則を理解しておけば、コンプレックスに悩んでいる人もその苦しみから抜け出す方法というのが、なんとなく見えてくると思うのだ。

少なくとも自分はこの本を読んで、自分がコンプレックスと感じているものを全て言語化し、それによって「コンプレックスを認めるのが怖くて口にすら出せない」段階からは数段、生きやすくなった。

個人的に言語化はまず文章化から始めるのがいいと思う。というのも実生活において、自分の「恥」について急に打ち明けられても、周囲の友人知人も困るだろうからだ。思春期のころは他人の見た目をディスる人たちがたくさんいるが、そんな彼らも大人になると学習して、他人の見た目をディスることなんてほとんどしなくなる。実際、自分も大学生以降は「顔がでかい」ことを指摘されたことがない。社会人にもなって、そんなことをしていると、そっちの方が「ヤバい奴」なのだ。大人になると、みんな「そういう部分」には触れないようになる。だから、まずは1人でできる文章化からトライして、可能ならカウンセラーさんと口頭でそれらについて語り合ってみる。それが自分が採用している方法である。

本当の勇気は「弱さ」を認めること ブレネー ブラウン (著), 門脇 陽子 (翻訳)

この本は全部で300ページ近くあり、ちょっと長いのだが、もし簡単に恥について知りたいという人は次の本を手に取ってみるといい。70ページぐらいの本だが、この本でも同様の内容がイラスト付きで端的に書かれている。

恥(シェイム)…生きづらさの根っこにあるもの 岩壁 茂 (監修)

思えば、ずっと「恥」を大声で喋れる人が羨ましかった。お笑い芸人のフジモンみたいに「顔でかいからや!」とあんだけ大声で、面白おかしくネタにできたらどんなに楽になれるだろうと、頭の片隅ではずっとわかっていたけど、自分にはその機会も勇気もなかった。笑いのネタにはできなかったけど、文章としてブログのネタとしては昇華することができた。

自分がブス、ブサイクであること認める。その上で諦めずに戦略的に恋愛に挑戦する。

「見た目」の問題はほぼ、「恋愛や性」の問題に直結する。もしこの世が同性だけなら、自分も見た目についてこれほど悩むこともなかっただろう。男友達を作る上で、「顔がでかいこと」が障壁になったことはない。

この本は年始に読んだのだが、あまりにもためになる本で、Wordで感想の書き残した。普段は読書メーターの255文字の感想しか付けないのだが、その文字数では収まりきらないぐらい、いい本だった。

作者は現在税理士として働いているのだが、学生時代から結婚に至るまで、ブスである自分がどのようにして恋愛に挑戦してきたか、どのように独立して生計を立てられるようになったか、その戦略をこの本では教えてくれる。

先ほど、ブス、ブサイク、カワイイ、イケメンの定義は曖昧であると書いたが、作者はその言葉の曖昧性を認めつつも、ブスとは「見た目を武器にできない人」と定義している。また、「かわいいね、などと顔を褒められたことが、20回以上あるかないか」というの基準も考案している。非常に的を射た定義だと思う。自分も恋愛において、見た目は武器にできないし、見た目を褒められたことも人生で20回もないだろう。

作者はとにかく「ブスであることを認めよう」ということを力説している。これは自分が解説した「恥を言語化する」こととも共通している。

恋愛において、自分の見た目のレベルを認められないと、「自分はブスである。その上でどうするか?」という戦略を立てる段階に至らないのだ。これは自分が身をもって経験している。自分の過去の片思いを振り返っても、美人ばかりを一本釣りしようとしていた。多分、この方法で好成績を修められるのはイケメンだけだと思う。

自分は世で頻繁に言われている「男は中身」という言説を信じ切っていたが、社会人生活をしばらく送ってみてわかるのは「中身」というのは、「圧倒的な中身」であり、それは例えば年収1000万を超える経済力であったり、芸人並みの話芸であったり、楽器がめちゃくちゃうまかったりと、いわば「芸」と呼べるものが必要で「ちょっと性格がいい」くらいでは、それらの「中身」はなかなか武器にならない。そういう「性格が穏やか、共感性が高い」というのが必要になってくるのはパートナーシップや家庭を築いた後の事であり、恋愛という「狩」の段階では残念ながらあまり武器とならないのだ。

なので、「男は中身」という言葉には気をつける必要があり、男もやはり「見た目」大切なのだ。

「ブサイクであること」を認めるのには精神的なダメージがもちろんあるが、それを認められると、その先には「じゃあ、その上でどうするか?」という戦略を立てる段階に入ることができる。見た目を認められないと間違った方法にすがり続けることになる。

この本は女性向きだが、男性が読んでも大いに参考になる。具体的な戦略面に関しては是非この本を読んで欲しい。

ブスのマーケティング戦略 税理士・田村麻美 (著)

「見た目問題」のスペシャリスト達に学ぶ

この2冊の本を紹介するのには、少し注意しなければならない。もしかするとこの本に出てくる人たちの意図にも反するかもしれない。でも自分自身が、自分の見た目問題に取り組む上で非常に参考になったので、紹介させていただく。

この本に出てくる方々は、アルビノなど診断名がつく先天性の症状を抱えている方々がほとんどで、対談形式で彼らの見た目をもとにした経験が語られている。

自分も思春期以降、誰にも話さず自分の見た目を15年以上悩み続けてきたが、それでも例えば電車で子供に見た目のことを指摘されたり、凝視されるとか、誰かの視線を感じるとかそういった経験はない。自分が見た目を気にするのは、異性と恋愛形式で相対する時だけであり、それ以外の場面では自分の見た目問題から逃げることができた。しかし、彼らは見た目問題と向き合う機会が多く、その分思春期以前から、自分の見た目問題に否が応でも向き合わされ、そして悩み続けてきた。その言葉は自分なんかが見た目のことを語るよりも、遥かに深いものである。

実際に彼らがどのような経験をしてきたか、またそこからどのような考えが導き出されたか、見た目問題が原因でどのような人生を歩むようになり、またどのようにして自らの手で人生を導いていったか、これらの金言に関しては是非この2冊の本を手に取ってもらいたい。

個人的な印象だが、前者がポジティブな面に焦点が当てられ、明るく描かれているのに対して、後者はネガティブな側面にも焦点が当てられている感じである。

そして、自分には「これからも自分は悩み続けていくだろう」という言葉が一番印象的だった。想像を絶する問題を悩みぬき、いろいろ乗り越えてもなお、これからも悩み続けるというのは、自分にいい意味で諦めと、そして勇気を与えてくれた。

顔ニモマケズ ―どんな「見た目」でも幸せになれることを証明した9人の物語 水野敬也 (著)

この顔と生きるということ 岩井建樹 (著)

中学の頃の自分にアドバイス

最後にまとめとして中学の頃の自分に、どうすればもっとマシな生活を送れるかということをアドバイスしようと思う。

そのアドバイスは簡単に言うと「言い返せ!」に尽きる。もちろん、元来気が弱く、中学の頃の自分にその勇気がないのもわかっているのだが、あの頃の自分は「事実に関しては反論できない」と言う思い込みがあり、それが故に「見た目」と言う事実の指摘に対して、「押し黙る」と言う選択しかとることができなかったのだ。

しかし、今にして思うとこれがよくなく、学習性無力感と言う状態に陥っていたことがわかる。学習性無力感というのは脳にとって非常に悪影響で、うつ病の原因にもなりうる。そうならないためには、攻撃された時に、なんでもいいから言い返すのだ。相手の見た目も指摘するでもいいし、性格の悪さを言い返すのでもいい。自分から攻撃するのはダメだが、攻撃された時に無抵抗でいるのも自分の脳にとっては本当に良くない、ということを自分はその10年後うつ病を発症してからようやく気がつく。

学習性無力感に陥らないために、なんでもいいからちょっとでも言い返すことの大切さというのをこちらの本で学んだ。自分の人生は本に助けられっぱなしである。

ちょっとだけ・こっそり・素早く「言い返す」技術 ゆうきゆう

「うんこ投げ競争の勝者は最後まで手が汚れなかった者である」という言葉は一見素晴らしいように聞こえるが、理想論である部分が大きい。実際に自分はこれを実行して、無抵抗でうんこまみれになって、学習性無力感になりうつ病になって、5年以上苦しんでいる。が、うんこを投げた人たちがその償いをしてくれるわけでは決してない。人間社会も想像以上に野性的だ。自分の身は自分で守らなくては、この厳しい野生社会を生きてはいけない。

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