敗北を受け入れる勇気 vol.8

前回の続き。

敗北を受け入れる勇気 vol.1

敗北を受け入れる勇気 vol.2

敗北を受け入れる勇気 vol.3

敗北を受け入れる勇気 vol.4

敗北を受け入れる勇気 vol.5

敗北を受け入れる勇気 vol.6

敗北を受け入れる勇気 vol.7

先日、ちょっと用事があって、かの後輩に数年ぶりに連絡をとった。アメリカに来てからも、後輩からちょくちょく連絡があり、自分は前の研究室での後輩の惨状を聞かされていた。しかし、それでも、後輩は孤軍奮闘し、研究室に行ったり休んだりを繰り返しながらも、優れた論文を発表し、期限内に博士号を取得することができた。そして、その研究室を離れて、今は別の研究所で働いている、というところまでは聞いていた。

後輩は、研究室を離れてから、悩みがなくなったのか、それとも新しい研究所でさらにひどい目にあって絶望したのか、自分に連絡してこなくなった。自分も、その後輩がどうしているか気にはなったものの、その後輩に連絡を取るということは、前の研究室でのトラウマを少なからず呼び起こさなければならないということなので、自分からも後輩に連絡しないようにしていた。「頼られたら、また会話しよう。そうでない限りは、前の研究室のことは忘れて、治療とこちらの生活に集中しよう」と。

結果的に、後輩とは3年近く連絡をとっていなかった。

先日、スカイプで後輩と3年ぶりに対面した。後輩は笑顔でとても元気そうだった。そして開口一番衝撃的な事実を告げられた。

「うつなまさん、自分2年くらい前に結婚して、今、数ヶ月の赤ちゃんがいます。」

なんていうことだ。今回、後輩から報告があるとのことだったから、「結婚でもするのかなぁ」とは予測していたけど、まさかとっくに結婚していて、もう子供もいるとは!いやはや。

自分は嬉しかった。自分と同じく、前の研究室で、非人道的な待遇を受けた後輩が、紛れもない幸せをつかんでいるということが。不仲な時期もあったが、その後輩とは基本的には気が合い、そして、お互いに冷遇を受けていたもの同士、仲間意識のようなものが強く、お互いの傷を舐め合いながら、なんとかその研究室を耐え抜いたという、戦地を共にしたかのような絆があった。そんな自分の好きな後輩が幸せの渦中にいるのだから、当然嬉しかった。

一方で、ちょっと残念というか、拍子抜けというか、複雑な思いも確実にあった。

それは「後輩はトラウマで苦しんでなどいなかった」ということだ。

自分もコロナ禍に入ってからは、日本から完全に隔離されて、なんなら研究からも隔離されて、前の研究室のことを思い出すことがほとんどと言っていいほどなくなっていた。今回、トラウマが蘇り始めたのも、また日本に向き合わなければならなくなったからで、その意味で自分は、ここ数年は平穏で幸せな日々を送っていた。カウンセリングもしゃべることがなくなり、予約が遠のくほどだった。

でも、アメリカに来てから最初の数年は、恋愛どころではなくて、過去の大整理に必死だった。そして、自分は「後輩にとっては、今がその時期なんじゃないか?」と勝手に想像していたのだ。

そもそも、後輩はそんなプロセスを歩んでいなかった。自分が数年かかったプロセスを数ヶ月で終えたとかでもなく、そもそも、そんなプロセスを経由していなかった!

後輩曰く、確かに最初の数ヶ月は、前の研究室の後遺症かな、と思われる症状もあったけど、でもわりとすぐになくなり、すぐに普通の生活を送れるようになったそうだ。そして、すぐに彼女を作り、今は家庭もある。そして、新生児のお世話でてんやわんやしてるとのことだった。後輩は以前の研究室と、全く別世界にいて、そしてなんの苦労もなく、前の研究室の世界から何事もなかったかのように脱出していた。

自分は1人で戦っていた。

いや、自分は1人で架空の敵と戦っていただけなのかもしれない。

後輩は、前の教授からメールが来ることも、そして先輩がIFの高い論文を発表することも、さしてストレスでなかったのだろう。自分はそういう出来事があるたびに、心臓がざわつき、食が細くなったが、後輩は自分がそういうストレスで苦しんでいる間に、別世界で朗らかに生活していた。

思えば、後輩は前の研究室にいる時から、自分よりうまくストレスを処理していたのかもしれない。後輩は精神的につらくなると、研究室に来ない、という状況に度々なっていたが、自分は精神的につらくても、毎日来ていたのだ。いくらしんどくても「病気でもないのに休むのは流石にまずい」と思って、這いつくばりながら、自分を痛めつけながら研究室に来ていた自分と、教授からの評価や禁忌に囚われず、「自分がつらいから自分を労るために休む」という選択肢が取れていた後輩。受けた蓄積ダメージから、研究室を出た後の病状の予後、どちらがいいかは明らかだ。敗北を受け入れられず、しんどくても研究室に来ていた自分と、敗北を受け入れ、休んでいた後輩、確実に後輩の勝ちと言えるだろう。

さらに後輩は「今、自分は6時ごろには研究室を出ています」ということも教えてくれた。

これも自分にとっては驚きだった。前の研究室に限らず、日本では未だにほとんどの研究室において、朝から夜遅くまで人が研究室に残っていると思っていたからだ。後輩曰く、自分の研究室だけでなく、身の回りの研究室でも、そういうところは少なくなってきているらしい。

自分は、前の研究室という架空の敵と戦うドンキホーテであり、そして5年近く日本を離れて、祖国の変化を何も知らない浦島太郎でもあった。多くのことが自分の想像と異なっていた。

自分は先輩が論文を出したときにストレスを感じていたが、一方で自分が論文を出した時も、先輩や教授に何かしらの影響を与えているものだと思っていた。自分はそれだけ意識されていると。でも、自分が出た後の研究室の様子を後輩から聞いた限り、自分の存在はそこまで意識されているというわけでもなさそうだった。少なくとも、自分は完全に教授や先輩から敵対されていると感じていたが、もしかしたらそれも違ったのかもしれない。そもそも、自分は彼らの中でそれほど大きな存在にはなっていなかった。先輩が研究室をさった後、自分が研究室を去った後、先輩には先輩の新たな人生があり、教授も新しく学生を向かい入れている。

世界は回り続けているのだ。私だけをおいて(My Little Loverか)。

自分が本を読んだり、カウンセリングに通い出したりしたのは、まさしく純粋に自分の苦しみを除去するためであったが、症状が和らぎ、自分がブログを書き始めたり、テレビゲームを始めたり、旅行を始めたり、ハイキングを始めたりという行為は、全てではないが、少なからず前の研究室を意識した行為であった。

絶対に、前の研究室に戻らないことは心に決めているが、それでも前の研究室に戻って、そこで過ごしている自分を頻繁に想像し、そして夢に出てくることもあった。

そうなった時に考えるのは「次はどうすれば、うつ病にならないように対処できるだろう?どうやったらいじめられずに済むだろう?」ということだった。

前と同じ自分が、前の研究室に帰っても、同じことが繰り返されるだけだ。自分は何か変わらないと。新しい武器を身につけないと。

自分が最近アクティブに屋外で行動するようになったのも、今年の抱負で書いたように新しい技術を身につけようとしているのも、そういう思いが少なからず、潜在的にあったからだ。

でも、そんな敵はそもそも存在しなくて、そして、そんな武器を身につける必要もないのかもしれないと、後輩と喋っていて感じた。実際に、後輩は自分のような試みは取らず、前の研究室なんか意識せず、頭の中の架空の敵と戦わず、全くの違う軸で生きていた。

後輩の幸せを祝福するとともに、「自分は何と戦っていたのだろう」と、なんとも言えない徒労感というか空虚感に包まれた、そんな3年ぶりのスカイプだった。

つづく

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする