野菜を選べるようになってきた

アメリカに来てから、自炊をする機会が増えて、それに応じて野菜を買う機会も増えた。

スーパーで買い物をしていると、主婦の方々が、山積みになった野菜や果物を手にとり、良い品物を吟味して選んでいる光景をよく目にする。

自分はそんなことをしたことがなかった。いつも適当に手にとり、買い物カゴに入れていた。選ばないから、もちろん傷んだ野菜を買って帰ってしまうこともあったのだが、特に気にしていなかった。

自分が元来そういうことに無頓着ということもあるが、何となく「良い品物をたくさんの中から選んで購入する」という行為があまり好きではなかった、ということもある。

別に「自分にはいい野菜を選ぶなんて、傲慢な行為はできない」と思っていたわけではない。自分はアダルトチルドレン気味だが、そこまで「自分に価値がない」とも思っていない。

何というか「もし、この傷んだ野菜を自分が手に取らなかったら、一体誰がこの野菜を買ってくれるのだろう」という、「見捨てられる存在が可哀想」という感情に起因しているのだ。それと同時に「傷があろうがなかろうが、全ての存在は対等に扱われるべき」というHSP特有の過剰なまでの平等精神も存在していた。この平等精神が「過剰である」ということに気づき始めたのは、つい最近のことである。

しかし、では自分が聖人君子のように何のネガティブな感情も抱かないかというと、そんなことはなく、良い野菜を選んで取っている人に対して「ずるい!」という嫉妬の感情はしっかり抱くのだ。

「野菜を選ぶ権利」があることは頭の片隅ではわかっているが、何となくそのことが醜く感じられてしまい、自分では野菜を選ぶことができない。「平等であるべき」という強い脳の縛り(禁忌)から逃げることができない、逃げる勇気がなく、それをできる人(野菜を選べる人)を恨んでしまう。

「こうあるべき(傷んだ野菜も平等に選択されるべき)」と「こうしたい(いい野菜を取りたい)」というジレンマに常々悩まされてきて、そしてほぼ必ずと言っていいほど「べき」の選択をしてきた。カウンセラーさんいわくこういう思考を「ネバネバベキベキ思考」というらしい。

カウンセリングに取り組み始めて2年が過ぎた。たくさんの本も読み、こういう自分の「認知の偏り」というのにも気づき始めた。最初は勇気が必要だったが、最近は自分もいい野菜を選べるようになってきた。「選ばれない野菜が可哀想」という感情がゼロというわけではないが、「いい野菜を選びたい」という感情を優先するようにしている。人間には二律背反する感情が常々共存している。

HSP気質の人やうつ病になりやすい人は「世の中はこうあるべき!」という幻想を抱きすぎなのだ。もちろん、そうあればいいかもしれないが、実際この世には醜い側面がたくさん存在していて、残念ながらそういう面から逃げることはできない。綺麗で美しい側面も汚く醜い側面も、両方の要素が生命現象には共存しているのだ。そして「汚く醜い側面」が多くの場合、「こうしたい!」とか「こうしたくない!」とか欲求の感情に起因しているため、それを受け入れられない人は、その欲求を自分の中から無理やり排除しようとして、「ネバネバベキベキ思考」になり、知らず知らずに脳を酷使して、最終的にうつ病になってしまう。

「いい野菜を選ぶ」という行為は自分にとってうつ病寛解のための療法の一つなのである。

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