うつ病を発症するまで、物語に満たされた人生を歩んでいた。父の影響だと思う。私が実家に帰ってきてからも、私が家を出た頃と同じように、絶えず小説を読み、映画を観ている。こんなに物語に触れている人も珍しいのではないかと思う。
小学生の頃、月に本を二冊読まないといけないというルールを父から課されていた。小学生が小説を読むのにはものすごく時間がかかるので、本を読むのはあまり好きではなかったのだが、小学生にとって、怖い父のルールは絶対である。そんなこんなで、半強制的に物語に触れていたが、時折ものすごく大当たりな小説を引くので、徐々に物語の虜になっていった。「ホビットの冒険」と「トムは真夜中の庭で」が小学生ながらめちゃくちゃ面白いと感じられた。
中学生に入ると、勉強と部活が忙しくなったこともあってか、「月に本を二冊読まないといけない」というルールは自然消滅した気がするが、それでも自発的に小説を低頻度で読んでいた気がするし、何より漫画をめちゃくちゃ読んでいた。「スラムダンク」「ハンターハンター」「週刊少年ジャンプに掲載されている漫画全般」父が所有していた「あしたのジョー」や「じゃりんこちえ」といった昔の漫画、とにかく漫画であれば家にあるものは片っ端から読んでいた気がする。妹が持っていた「NANA」や「世界でいちばん優しい音楽」といった少女漫画もたくさん読んでいた。
また以前もブログに書いたが、テレビ視聴がほとんど許されない中で、「北の国から」を何度も繰り返し視聴していた。
大学生になり、一人暮らしを始めると、好きだった人が村上春樹が好き→村上春樹を読みまくる→村上春樹がドストエフスキーや昔の海外古典をやたら推す→海外古典を読みまくる、の流れで研究室生活が始まるまで、そして始まってからも低頻度で(ラボで白鯨を読んだ話をした記憶がある)ドストエフスキーなどの難しい小説を読みまくった。そして、Tsutayaで絶えずレンタルDVDを借り、昔の古典から現在の流行まで、映画やドラマを見まくっていた。
2015年に背側迷走神経のギアセカンドが発動し、うつ病・複雑性PTSDとなり、急速に物語から遠のいていった。Tsutayaで借りたDVDを期限内に見られずに、見ずに返したり、延滞してしまう事が増え、なぜかこの頃の夢をいまだに見る。小説は全く読まなくなり、代わりにメンタルヘルスやパーソナリティーに関わる本ばかりを読むようになった。最初に「嫌われる勇気」を読んでめちゃくちゃ感動し「こういう本の中に、自分を救う何かがあるかもしれない」と信じ、苦しみから抜け出したくて、楽になりたくて、そういう本を読みまくった。
渡米後もそういう読書傾向が続いた。でも、自分の中で、自分を苦しめてきた存在の正体が見え始めて、2020年ごろに猛烈な読書期が終わり、メンタルヘルス関連本の読書もだいぶペースが落ち着いた。
昔のように、小説や映画、ドラマそういうのに囲まれる生活に戻りたいなという気持ちは、病を発症してからも、ずっとどこかにあった。でも、猛烈な読書期が終わった後も、物語に入り込むことはできなかった。NIHのラボメンバーたちが帰宅後、Netflix中毒になっている様子と、物語に触れられない自分が対照的だった。
アメリカの研究室で流行った物語として、Game of ThronesとTokyo Viceがあった。Game of Thronesは日本語字幕がなく、英語字幕では今でもおそらく理解できる内容ではないので、勧められても手をつけようと思わなかったが(それでもラボメンバーから勧められることが多く、みんなが私の英語力を過大評価していると感じられた)、Tokyo Viceは日本との共同制作で理解できる部分も多く、見てみようと思った。だが、Season1を見終わるのに、1年以上時間がかかったように記憶している。時間は山のようにあるのに、帰宅後、どうしてもTokyo Viceを開く事ができず、代わりに頭を使わなくても理解できるYoutubeばかりを延々と見てしまう。もう似たような動画ばかり見て、自分でも飽き飽きしているのに、その状況を変えられない。
実は理由はだいたいわかっている。物語が怖いのである。病の発症前の自分にとって、ホラー映画でもない限り、物語が怖いという感覚はなかった。小説であれ映画であれ、リラクゼーションの一環として、特に心理的な障壁がなく、物語がごくごく自然に頭に入ってきた。だが、病を発症してから、未知なるストーリーが恐怖対照として、危険なものとして認識されるようになった。少なくとも、仕事で疲れ、帰ってきて休みたい自分にとって、物語はもはや「リラクゼーションの一環」ではなくなったのである。逆に見たことのある物語なら、そんなに心理的障壁がなく、普通に見れていた。
特に苦手になったのは、恋愛やラブシーンだった。20代後半で病になり30歳を超えても彼女の一人もできない、そんな自分にとって、映画で描かれるラブシーンが眼前に広がると、自分の劣等性がクリアに認識され、自分は即座に再生停止ボタンを押し、Youtubeに切り替える。だが「恋愛要素が一切ない物語」というのは比較的稀であり、Tokyo Viceにもそういうシーンが何度か出てきて、それが物語の視聴がなかなか進まない理由であった。
Filmarksというアプリで自分の観た映画を記録しているのだが、7年間のアメリカ生活で視聴した映画は「ギルバートグレイブ」「存在の耐えられない軽さ」「キルビル」の3作品のみであった。
アメリカから帰国してから、心理的にちょっとだけ余裕ができ、U-NextやNetflixと契約した。その中で、真っ先に視聴を開始したのが「男はつらいよ」シリーズだった。アメリカにいる時も「男はつらいよだったら観れるのにな」と思いつつ、残念ながらアメリカのNetflixにもHBO MAXにも男はつらいよは存在せずに、視聴することができなかった。
「男はつらいよ」は父も好きで、中学生の頃からテレビで再放送がやっている時など、一緒になって観ていた。自分もすっかり寅さんの魅力、山田洋次のストーリー展開の虜になっていたが、一方でその頃からすでに、男はつらいよのストーリーがワンパターンであることも知っていた。
男はつらいよは、必ずマドンナがいて、どれも恋愛の話なのだが、シリーズ48作品を通じて寅さんの恋が成就することはない。寅さんが旅先でマドンナに惚れ、ストーリー終盤でフラれるという基本パターンが48作品繰り返される。最後の48作目だけリリーと上手くいきそうな場面で終わりそうだったのだが、その後、些細な喧嘩でまた寅さんが旅に出ていってしまう場面がリリーによりナレーションされる。
何度も恋をするのに、それが必ず上手くいかない。シンプルにフラれるストーリーも多いが、意外と相手も乗り気なのに、寅さんが自信を失い、自ら離れていってしまうケースも多い。相手が離れようとすると追いかけ、相手が近づこうとすると離れる。典型的な恋愛のアンビバレンスな様子が、自分がかつて苦しんだMちゃんとの恋愛を彷彿とさせた。彼女もこちらが近づこうとすると離れて、諦めようとすると絶妙なタイミングで秋波を送ってきた。
でも、寅さんの絶対に上手くいかない恋愛なら、嫉妬することなく、不安な気持ちにならず、楽しく視聴することができた。物語の登場人物だけど、定職についたことも無く、恋愛もどれも成就せず、一年中テキ屋で旅暮らしをしている男がこの世にいるのだと思うと、自分の状況も救われた。帰国してから2年間で全48作品を観た。1作品に2ヶ月近くかかる場合もあったが、それでも月に2作品は見た計算になる。7年間で3作品しか映画を見れなかった自分にとって、ずいぶん症状が改善されたなと思う。
今は寅さんから離れられたけど、また心に余裕がなくなると、寅さんを見ると思う。父も、同じ作品を繰り返し何度も見ている。
最近は、ローペースではあるが、男はつらいよ以外も観れるようになった。特に映画館で観ると、再生停止ができないので、否が応でも物語を最後まで見ざるを得ず、それがいいなと思っている。

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