“Dead or PI”なアカデミア研究者の苦しみ

老人と若者しかいないセミナー会場

先に言っておくが、今回の記事には誇張表現があり、実際には例外が多々あり、アカデミック業界も極限的に厳しいものではない。だが、日夜プレッシャーを感じながら、研究生活を送っている20代30代の若手研究者には、ある程度共感してもらえる記事ではないかと思う。

学部4年から研究生活を始めて、約10年、NIHでの任期が終わりに近づいてきて、次の行き先を探さなければならなくなり、日々楽しく過ごしながらも、一方で自分は猛烈なプレッシャーを抱えている。

自分が10年間いるライフサイエンス系のアカデミック研究業界はすごく独特な、競争の激しい世界だ。この業界を知らない人にとっては「研究業界は競争が激しい」と聞くと、意外な感じがするかもしれない。

実際、昔の学者や研究者に持たれるイメージというのは「風変わりで、のんびりしていて、どこか異端で、でも物知り」そんなイメージだろう。自分が高校生の頃に「研究者になりたい」と夢見ていた研究者像はそんな感じだった。あまりお金にはならないけど、でも一生かけて、知の世界にどっぷりとつかれるような、そんなイメージ。

今の研究者も「風変わり」といえば確かにそうかもしれない。10年近くこの世界にいて、NIHでたくさんの研究者に出会って、自分も含めてそうだけど、「あえて不安定な道を進む人たちの集まり」では確実にあるので、たまに異業者同志の集まりに出たりすると、研究者だけピーターパン症候群というか、年齢の割にどこか幼い印象を受ける。

ただ「のんびり」という点に関しては明確に違う。准教授以下のポジションがほとんど任期付きになり、任期が近づくと別のポジションに移らなければ仕事を失ってしまう。多くの研究者はその任期までに研究論文をインパクトファクター(IF)の高い雑誌にたくさん掲載することを目指している、というよりかは”目指さざるを得なくて“、そこには多大なプレッシャーが伴う。なんとなく「研究者が学者ではなくなった」という印象も時々うける。博学で物知りというよりかは「期限内に、予算内で、どうすればIFの高い論文を出せるか?」というゲームが得意なビジネスマン的な研究者がたくさん輩出されている印象がある。無駄な知識を仕入れている時間がほとんどないのだ。

研究者は大きく分けると、PI (principle investigator) かPIじゃないかで大別される。PIはその研究室のトップであり論文上でラストオーサーだったり責任著者(corresponding author)だったりと呼ばれる、論文の一番最後に名前が書かれる立場である。日本の大学で言うと「教授」が基本的にその立場にある(准教授、講師、助教がPIのことも場合によってはある)。PIの仕事はいわゆる管理職が基本であり、予算の獲得や、人員の調整、プロジェクトの方向性の決定などが業務で、実際に実験していわゆる「手を動かす」のはPIじゃない研究者(准教授以下、ポスドク)が行う。

昨今、PIポジションですら任期付きだったりするが、基本的にはPIポジションは永久雇用(パーマネント)あるいはテニュアトラックと呼ばれる、頑張れば永久雇用になるポジションであることが多い。一方のPIじゃないポジションは基本的に任期付きである(もちろん例外もある)。

つまり「定年までアカデミック研究者で居続けたいなら、必然的にPI(管理職)を目指さざるを得ない」というのが現在の研究者業界事情なのである。永遠に平社員(PIじゃない研究者)で居続けることが残念ながらできないのだ。

研究業界をいまだに知らない中高生がこのことを聞くと、なんとも不思議な印象を受けるのではないかと思う。

実際、NIHでセミナー(研究発表会)に参加したりすると、その場の年齢構成に対して違和感を覚える。一般的に働き盛りと言われる40代50代の大人がほとんどいないのである。20代30代の若者と60オーバーの老人ばかりだ。

NIHの場合だと、Visiting Fellowと呼ばれるポスドクポジションの枠が最も多く、このポジションはPh.Dを取得してから5年以内の研究者が応募でき、任期は外国人研究者ならば最大5年である。Ph.Dを取得してから5年以上が経過した研究者にはResearch Fellowと呼ばれるポジションが用意されているが、Visiting Fellowに比べると枠が極めて少ない。そして、NIHではVisiting FellowおよびResearch Fellowを通算して8年が、Fellow(ポスドク)としていられる期間のマックスであり、それ以上NIHに在籍したければ、Staff Scientist(任期なしのPIじゃない研究者ポジション)やPIにならなくてはならず、その枠はさらに狭まる。

つまり、Visiting Fellowを終えた30代半ばの研究者は、基本的にアメリカの大学でポジションの獲得を目指したり、祖国や別の国でポジションの獲得を目指さざるを得ないのである。そして、ポジションを獲得するためにはVisiting Fellowのうちに、論文を出さなければいけない。

かつてネバベキ思考の危険性について、ブログ記事を書いた自分であるが、今の研究者業界はネバベキ思考で山積みになっている。実際に自分は日本時代のオーバーワークでうつ病になってしまった。

ただ、実際は以下の一言が研究業界における全てのネバベキ思考の原点にある。

任期内、あるいは予算が継続している内にIFの高い論文を出さなくてはならない

このネバベキは、PIポジションを獲得するためであり、そしてPIになってから研究室を継続的に運営するためである。IFの高い論文がないとPIになれないし、研究費の獲得も極めて困難になる。

この記事のタイトルの”Dead or PI”が何となく伝わったのではないかと思う。PIになることでしか、ずっと研究者として生きていくことが保証されず、そして、皮肉なことにPIになったからと言って、研究費が途絶えれば、研究室を継続的に運営していくことができないのである。

一歩でも道を踏み外すと、転落してしまうような、そんな綱渡り的な感覚で研究者は生きている。

いったい誰がそんなことやりたい?

世界を広く保つことの大切さと難しさ

「PIになれなければ死ぬ」そんな恐怖を抱えて生きている研究者は少なくはないと思う。そして、そういう「綱渡り的なプレッシャー」が原因かは定かではないけど、「研究者の自殺」というのは実際にしばしば耳にしてしまうのだ。

もちろん、PIになれなかったからといって実際に死ぬわけではない。自分がNIHで出会った研究者のほとんどは、きつい競争の中にあっても、人間としての精神を保っている人が大半であり、PIになるのは全体の2-3割で、大半はセカンドポスドク(日本人以外ではあまり見ないかも)、NIH内のStaff Scientist等のプロモーション、あるいは企業就職するなりして、次の人生を生きている。

大体、40歳くらいが「ずっとアカデミックで行く or アカデミックをやめる」の岐路になっている印象だ。特に、アメリカで出会った日本人研究者の半分くらいは、日本に戻る際に企業就職している印象がある。一度、就職セミナーに参加した際に、Natureを筆頭著者で出して、企業就職した人に出会った。その他にも何人か「IFの高い論文を出してアカデミアを去る」人に出会って、この業界を続けることの大変さを痛感した。

なんとなくだが「気力がもたない」のだと思う。40歳を超えてPI以外のアカデミアポジションにいるということは、40歳を超えても「一つの地域に定住できない」ということなのだ。家族がいる場合、それはあまりにも大変なことだし、シングルの場合でも、「定住できない」ことはパートナー形成に支障をきたす。そんなこんなで、40歳を迎えてから続々とアカデミアを離脱する人が増えていき、これがサブタイトルの「若者か老人しかいない現象」につながっていくわけである。

ただ、研究業界にいて「人間としての精神を保つ」ことは意外と至難の業なのだ。

過度なプレッシャーにさらされると、どうしても研究における労働時間が増えて、人生が「研究室と自宅の往復」になってしまい、人付き合いの幅が狭まってしまう。すると、人付き合いが研究者同士の付き合いだけになり「やれ誰々があのIFの高い雑誌に論文を出した」とか「やれ誰々がPIになった」とか、そういう話ばかりをするようになってしまう。

そんな中で、もし研究結果が伴わなかった場合、どんどんプレッシャーで追い込まれて、自分の人生に暗いイメージがつきまとう。「同期はあんなに活躍しているのに、出世しているのに、自分はいったい」とか。会社の場合、それでも平社員としての立場は保たれるかもしれないけど、研究業界の場合は「平社員としての立場」が保たれないのである。

特に研究者になるような人は、高学歴で、挫折が人よりも少なくて、恥や敗北の感情の処理が苦手であることが多い。そんな状況で「人間としての精神を保つ」ことは簡単なことではないのだ。

そうならないために、自分は「研究者以外」との付き合いというのを大切にしている。別に精神を保つために研究者以外との友人を作っているというよりかは、純粋に楽しかったり、寂しかったりするからそうしているわけだけど、最近、キャリアのプレッシャーを感じだしてから、この「研究者以外との付き合い」が自分の世界を広げて、精神を健康に保つことに大いに役立っていることに気がついたのだ。

たまに地元の友達と喋ったりしていると「お前、一体何してるん?」とそんなようなことを聞かれる。研究者の一般的な認識なんてそんなものだ。我々の綱渡り的なプレッシャーなんて、そんな過酷な世界が存在しているなんて、彼らは何も知らない。でも、彼らも我々と同じ地球に生きている。我々研究者はそこまで特別な存在でなく、研究というのも我々のアイデンティティのあくまで一部であり、それがなくなったからといって自分そのものがなくなるわけではない。

エリートと呼ばれる人たちは、エリート以外との人付き合いを蔑ろにしがちである。でも、それにより、エリート以外を蔑むことで、一瞬の優越感が得られることはあっても、それは麻薬的作用で、切れるとすぐに「不安」が強くなる。「自分もいつか転落するのではないか?」と。

そのエリートという麻薬的魅力に騙されずに、精神を「広い世界」に繋ぎ止めておくことは簡単なことではないと思う。

大切なのは研究者としての本来の目的を忘れないこと

そんなプレッシャーに駆られて、最近つくづく感じるのは、研究者としての本来の目的を見失わないことがいかに大切であるかということだ。

当たり前だが、PIというのは研究者の一つの形態にすぎず、学生であれポスドクであれ助教であれ講師であれ准教授であれ、研究に携わっている以上、みんな研究者だ。そして「論文」という形で、一つでもあなたの発見を世の中に伝えることができれば、それはもう立派な研究者だ。あとは「どれだけそれを続けるか」「いつやめるか」の”遅いか早いかの違い”でしかない。Ph.Dだけとって企業就職する人もいれば、ポスドクまでやって企業就職する人もいれば、NIHのPI達みたいに今際の際まで研究を続ける人もいる。

研究目的というのは基本的に、プロジェクト内、論文を出す所までで完結している。研究の一番の目的は「己の科学的発見を世の中に伝えること」であり、その手段が論文を出すことであり、論文を出すことで自分が昇進したりPIになったり、次の予算を獲得したりするのは、あくまで副次的な目的なのである。

だが実際のところ、過度なプレッシャーにさらされて、目的と手段が逆転してしまったり、本末転倒になってしまう研究者というのはたくさんいる。

一番最たる例が「捏造」であり、本来「科学的な事実」を伝えるのが研究者の仕事なのに、論文という業績がキャリアにとって不可欠なために「フィクション」で無理やり論文を作り上げて、世に伝えてしまうのだ。

そして困ったことに、自分から見て「いい人、いい友人」であっても「まあこんなにプレッシャーがすごかったら、多少はしょうがないよね」と、そういう杜撰な研究を肯定する発言をちらほらしてしまうのである。

「フィクションでいいなら、いったい我々は何のために多額の研究費を割いて実験しているのか?何のためにマウスの命を犠牲にしているのか?フィクションでいいなら、ただで書けるのに」

捏造はこの業界で完全にアウトであるが「ちゃんとした研究」と「捏造」の間には「杜撰でいい加減な研究」というグレーな領域があり、こちらはアウトになりづらい。杜撰な研究ばかりしていると「あの研究室の仕事は再現が取れない」と長い時間をかけて信用を落とすけど、予算獲得までの当面の間はほとんど問題にならないし、リトラクション(論文撤廃)のような処罰の対象にはなりづらい。

そのことを利用して「論文を出す」という目的(本体は科学的発見を伝えるための手段)を果たすために、その研究が杜撰で再現性が怪しいという事実を知りながら「食っていくためだ」とそこから目を背けて、知らんぷりして論文を出してしまう人が、研究室がたくさんある。そして「他もやっているんだから、うちだってやっていいだろ。食っていくためだ」と罪悪感が薄れて、それに続く研究者もたくさんいる。

これにまつわり、最近見つけたいいツイートを添付しておこう。

自分がNIHで所属した研究室のPIは「自分は大抵のことには寛容だが、捏造とかデータ操作に関してはzero toleranceだ」と言って、厳しく、科学的事実だけを追求した。自分にはそれが大変ありがたく、ボスの姿勢にすごく尊敬の念を抱いた。おかげで、自分が納得できる形で、科学的事実のみを用いたデータで、科学的発見を論文という形で伝えることができた。ここにいることができた数年間、自分は紛れもなく幸せな研究者生活を送ることができた。

研究者は時に目を覆いたくなるようなデータに出くわす。「これさえあれば論文になったのに」「なぜこのデータは予測と逆になるんだ」自然界はそんなことばかり起こる。でも、その科学的事実から目を逸らさなかった時においてのみ、重要な科学的発見というのが可能なのだ。そういう「予想とは違うデータ」が出るのにはちゃんとした「人智を超えた科学的理由」がある。

人間だから、目先の利益に目が眩んで、誤魔化してしまうというのも、もちろん理解はできる。でも、もしあなたが真摯に研究に取り組んで、面白い発見ができず、論文を出せず、ポジションを獲得できなかったのだとしたら、それはあなたが真摯に研究に取り組んだ証拠だから胸を張っていい。

「運がなかった、才能がなかった」そう言ってアカデミアから足を洗う方が、杜撰な論文を世に出して、他の研究者を困惑させるより、よほど研究業界に貢献している。

もちろん、「ちゃんとした研究をしている研究者」が大半であると信じている。少なくともNIHという研究環境では「ちゃんとした研究をしている研究室」が大半であると感じられた。ただ、それと同時に、もう少し「研究者のプレッシャーを少なくするような、上手いシステム」がないものかなとも思う。

今みたいな、一度の失敗も許されないような、綱渡り的なアカデミアライフでなくて、企業に行った人がまた短期的に戻ってきたり、業績がなくても獲得できる研究予算の枠組みがあったり、「PIと学生スタッフ」のような研究室という単位以外でもっと自由に研究ができたり、もっと研究者が科学に向き合いやすいシステムはないものかなと。

もし研究への情熱と知的好奇心が未だに保たれているのなら

最後に、これは自分へ向けてのメッセージでもあるのだが、研究において最も重要なのは「何か解き明かしたいことがあるか?」「興味のある研究対象はあるか?」「テーマの答えが気になってしょうがないか?」「本当のことが知りたいか?」などの”知的好奇心“であることを書いておく。それは「上のポジションに就きたい」「研究で名声を得たい」などの”出世欲や名声欲“よりもはるかに大切なことだ。

けして、研究活動における”出世欲や名声欲”を否定しているわけではない。研究者も人間である以上、人としての社会欲求から切り離しては考えられないし、”出世欲や名声欲”バリバリの人間で、なおかつ”知的好奇心”も両立して備えて、活躍している人間もNIHに来てからたくさん見てきたから。

ただ、抑えられない”知的好奇心”のみが、研究をユニークな方向に導くことも確かだと感じるのだ。

“出世欲や名声欲”のみで研究をやっていると、例えば、頑張っても結果が出ずに、それらが望めなかった時に「研究者を諦めて別の道に行く」という選択をとると思う。「教授になれないPIになれない」ということが確定するのであれば、それらのモチベーションのみで研究をしている人にとって、もはや研究をする意味はないだろう。

あるいは生活への不安から、研究者をやめて、安定した給料、定住できる土地を求めて、アカデミア研究職以外の仕事に就く場合もあるだろう。自分はそれらの選択を決して否定しない。研究活動であっても「人間としての基本的な欲求」から大幅に外れた試みというのは、最終的にはうまくいかなくなるというのをよく見聞きしてきたから。

でも、”知的好奇心”に突き動かされて研究しているのなら、「あの研究気になるな」「あの手法学んでみたいな」「あのテーマ解明してみたいな」とそういう動機から、出世の可能性が乏しくても、安定から遠ざかっても、新たな研究のゲートを潜ることが可能なのだ。そのモチベーションがあれば、給料や生活を度外視して、全く行ったことのない国の研究室にメールしたり、あるいはPIになろうと申請書を書いたり、そういう行動に繋がって、”何かの融合“を生み出すことが可能なのである。

歳をとるごとに「興味・関心・情熱」みたいな要素が、努力によって伸ばすことができないものであることをまざまざと思い知らされる。そしてそれを保つことの難しさと、保っている人間の貴重さを実感する。

もしあなたが未だに何かに「興味・関心・情熱」があるのなら、それを「無駄」だと思わずに、大切に保管していてほしい。

それ以上に貴重なものは、なかなか存在しないから。

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コメント

  1. Tetsu より:

    たまたまネットで検索しているとこのサイトを見つけました。いくつかの投稿を読ませていただきましたが、共感できる内容ばかりで心を動かされ、コメントさせていただきます。
    当方も東海岸(NIHではない)でポスドクとして研究中です。研究業界というものがどのようなものかを知らず、片足を突っ込んでしまい、なかなか苦労しています。
    トラバーユさんの投稿で少し気持ちが楽になった気がします。ありがとうございます。

    • 管理人うつなま より:

      コメントありがとうございます。そう言っていただけると書いたかいがあります。
      周りもせかしてきたりプレッシャーをかけてきたりするので精神を保つのが大変な世界ですが、そういう側面を抜きにすると、自分の科学的発見を世に伝えることができるという、他では味わえない喜びがある職業だとも思うので、サイエンスをエンジョイしてください!海外生活という会社に入ってしまうとなかなか自分の意志でできないことをできる職業でもあるので、ライフにおいても存分にinvestigateしてresearchしてスリルと楽しさを享受して下さい!そして研究に完全に囚われず、取り憑かれず、世界を広く保って下さい。人に何かを言える立場ではないですが、僭越ながら!