「気にしない人」は「気にならない人」。批判を気にしないための現実的な方法を解説

自分という人間は「誰かから批判されないため」に今までの人生30年を捧げてきたと言っても過言ではない。それくらい、人から悪口を言われたり、行為を批判されたりすることにストレスを感じてしまう。

2014年に「嫌われる勇気」を読んで、そういう「誰かから嫌われないためだけに生きる姿勢」というのが、間違ったものであるということを学んだ後、その傾向は多少はマシにはなった。しかし「自分のしたいこと」よりも「周りから嫌われないこと」を優先する傾向は変わらなかったように思う。

2015年にうつ病を発症し、その治療過程でTwitterを始め、自分と似たような思考傾向のある人たちが、うつ病で苦しんでいる様子が散見された。

例えば、この方のツイート

他人の目を気にしないこと」や「他人と比べないこと」はうつ病寛解のために非常に大切なことだと思う。必須条件と言っても過言ではないかもしれない。

一方でこれらの言葉に対して、「どうやって?」「それが簡単にできたら、そもそも苦しんでいない」と感じてしまうのもまた事実だ。普通に、今まで通り生きている限り、いつまで経っても人の目は気になるし、自分より社会的ステータスが上の人を見ては落ち込む。

自分は、これらの「それが簡単にできたら、そもそも苦労しない系」のアドバイスのことを「無理ゲーシリーズ」と呼んでいる

しかし、ある程度長く生きていると、少なくとも自分よりは、他人よりの目を気にしていなさそうな人というのに数多く出会ってきた。そんな人たちを観察したり、また自分自身、本を読んだりカウンセリングに通ったりしている過程で、「こうすれば、他人の目が気にならなくなるのでは?」という方法が見えてきた。

このブログ記事では、正しいかどうかはわからないが、そんな自分の仮説を解説しようと思う。

気になることを意図的に頭から除去するのは困難という証拠が実験的に提示されている

自分がこの記事を書こうと思った理由の一つとして、ネットと書物で興味深い心理学的実験を見つけたというのがある。

どちらも似たような実験である。一つはこのネットに落ちている「赤いリンゴについて、考えないでください。」という思考実験の紹介記事である。

何も考えない方法「思考を止めることはできますか?」

何かを無理やり考えないようにするのは無理。脳の奥深くに隠れた思考が潜んでいる(オーストラリア研究)

赤いリンゴについて、考えないでください。

そう言われたとき、頭の中から「赤いリンゴ」を取り除くことは、きわめて困難です。

それができなくても、安心してください。

人間の脳は、そのようにできています。

このように、頭の中から取り除くことを「思考抑制」といいます。

しかし、この「思考抑制」は、逆効果です。

取り除こうと思うほど、頭の中に滞在するからです。

何も考えない方法「思考を止めることはできますか?」

もう一つ、同様の実験が紹介されているのは、スタンフォードの自分を変える教室 ケリー・マクゴニガル (著)の中である。

この本の第9章の「この章は読まないで 「やらない力」の限界」の中では、「シロクマのことを5分間考えないようにしてください」と言われると、逆にシロクマのことばかりを考えてしまう、という実験例が紹介されている。おそらく、有名な実験はこちらの「シロクマ」の方であり、「考えるなと言われると逆に考えてしまう」という現象は皮肉過程理論(皮肉なリバウンド効果とも言われる)として、日本語のWikipedia記事にもなっている。

やりたいことがあまりにも多すぎて、他人の目が気になっていなかった同僚の話

自分はこれらの思考抑制 (Thought suppression) に関する実験を知って、大変納得した。これらの実験内では、例えとして、赤いリンゴやシロクマが利用されているが、これを「他人の目」に置き換えることもできる。

「人からどう思われるか」気にしないでおこうと思えば思うほど、逆に人からどう思われるかどうかばかり気にしてしまい、ネガティブな思考が抑制できない。

そんな経験があるのは自分だけではないと思う。

「他人の目を気にしすぎたり、他人と比べたりしすぎるのはメンタル的に良くない」というのは頭(理性)ではわかっているが、その思考を取り除くことができず、「考えないでおこう」と思ったまま、考え続けてしまい、結果として、「他人の目を気にし続ける」という変化のない状態が何年も続いてしまう。

自分がNIHの研究室に移ってから、非常に印象的な同僚が1人いた。彼はイギリス出身の男性であり、名前は仮にトーマスとする。彼とは同じ研究プロジェクトを共有しており、仕事上での繋がりから、プライベート面でも関わるようになった。

彼は自分が出会ってきた人の中で最も多趣味な人間だった。日常がやりたいことで埋め尽くされていて、なおかつできる限り、そのやりたいことを実行していた。

その趣味はインドアからアウトドアまで、さまざまなものを網羅していた。読書が好きで、Kindleを常に携帯し、ワシントンD.C.の読書クラブに参加し、課題図書を読んでは、そのクラブで意見交換をしていた。料理が好きで、夕方になると職場のパソコンで、作りたい料理の調理方法をYoutubeで見ていて「今日はこれを作るんだ!」と楽しそうに言っていた。テレビゲームが好きで、Nintendo switchの発売を誰よりも楽しみにしていたし、テレビゲームだけでなく、ボードゲームにも精通していて、色々なゲームをラボメンバーに紹介していた。最新の電子機器が大好きで、携帯とかその手の細々したものを頻繁に購入していた。パソコンにも詳しく、友人と協力してHPを作ったりしてもしていた。ラボノートはSublime Textで付けて、Pythonも動かすことができた。人と喋るのが好きで、毎週のようにラボメンバーをバーに誘い、お酒を飲みながら談話を楽しんでいた。友達も多かったし、彼女もいた。運動も好きで、ハイキングクラブに参加したり、時折職場から自宅までランニングウェアを着て走って帰宅していた。

これらは彼のごくごく一部という感じで、実際はもっと興味関心に満ち溢れ、なおかつそれを行動に移していた。

とにかく、人生において体験したものがないという感じであった。彼に比べると、自分は如何に中身のない人間なのだと感じられ、情けなかった。日本にいた頃は研究室と自宅の往復のみで、親元を離れていたにもかかわらず、ほとんど旅行をしたことがなかった。夜遅くに研究室から帰ってきて、1人でテレビを見てお酒を飲んで自慰行為をするだけの毎日だった。それはアメリカに来てからもほとんど変わらなかった。

それだけ仕事を一生懸命やっていたつもりだったが、悲しいことに、彼は自分よりも優れた研究業績をあげていたのだ。それだけ、プライベートを最大限に楽しみながら、なおかつ仕事においても優れたパフォーマンスを発揮する。実際、彼は誰よりも楽しんで仕事をしていたように思う。そして、彼は現在、祖国で自分の研究室を運営しているのだ。

ただ、それだけ慌ただしい彼のことだから、仕事面において、彼はミスも多かったし、他人に迷惑をかけることもしばしばあった。なんというか、落ち着きがなく、突発的に無計画に新しい仕事を始めるから、その分失敗も多かったのだ。机の上も、実験ベンチの上も散らかっていて、もしかすると若干ADHD気味だったのかなとも思っている。

ただ、失敗しても、周りから文句を言われても、彼はそれほど気にしていなかった、というか気にしている時間がないのだ。もちろん、彼なりに申し訳ないと感じているとは思うが、その5分後にはもう、次のやりたいことに着手している感じなのだ。

そんな彼だから、周りもあまり注意しなくなる。「あんないい加減なやつだけど、面白いし、みんなをバーに誘ってくれるし、いい仕事もするから、まあいいか」みたいな感じになるのだ。実際、彼は他のどのラボメンバーよりもみんなから好かれていたように思う。

そんな彼を数年間観察していて、他人の目を気にしない人というのは、他人の目が気にならない人なのだということが、感覚的に理解できた。他人の批判が自分の心に入り込む余地が圧倒的に少なく、常に自分のやりたいことに満ち溢れて、なおかつ、その欲求を実現させるべく、大胆に行動していく。そんな生き方をしていれば、自然と他人の目を気にしている時間がなくなってしまうのだ。

赤いリンゴのことを考えないためには、他のことに集中できる状態に自分を持っていく

実際に、紹介した思考抑制の実験においても、同様のことが紹介されている。何か気になることを頭から取り除くには、別の何かで頭を埋めるのが有効なのである

実験の参加者らに、「赤いリンゴ」ではなく、「黄色のひまわり」について考えるように求めたときです。

参加者らは、別のものを考えると、「赤」や「リンゴ」といった思考を、辞めることができました。

何かに置き換えることで、赤いリンゴを考えないことに成功したのです。

何も考えない方法「思考を止めることはできますか?」

ただ、自分のように、思春期以降、自分の興味関心を育むということをせず、勉強、仕事を中心に生きてきた人間が、昨日今日でトーマスのように生きられるということは、残念ながらない、ということが、ここ数年の自分の観察してよくわかった。

「興味」とか「関心」というのは一朝一夕で自分の心の中に生まれてくるものではない。ましてや、その関心を行動に移したいという「欲求」とそれを実行するための行動力を身につけるのは、さらに難しい技術である。

水や肥料を与えて、じっくりと「興味・関心・欲求」の芽を育てていくのだ。これは想像以上に時間のかかる作業だが、今まで育てて来なかったのだからしょうがない。

何か気になる、面白そうなものがあれば、素直にその感情にしたがってみる。「こんなことをしている場合でない!」とすぐに仕事に戻ってはいけない。

自分は数ヶ月前に、カウンセラーさんから教わった「インサイドアウトな生き方」ということに関して、ブログ記事を書いた。

インサイドアウトな生き方へ

自分の内(in)なる「興味・関心・欲求」を外(out)へ表現していく、インサイドアウトな生き方というのは、まさにトーマスの生き方そのものだ。しかし、インサイドアウトの生き方を実現させるためには、そもそもある程度、自分のインサイドが充実する必要があるのだ。自分の「興味・関心・欲求」がほとんどない、中身スッカスカな、昔の自分のような人間では、そもそもインサイドアウトな生き方というのは実現できない

他人からの批判というのは、そういう中身スッカスカの人間の中にほど入り込む余地というのがあるのだ

あえて赤いリンゴについてとことん考えてみる

何かが頭にこびりついて、その思考から逸脱できないというのは、他人からの批判に限った話ではない。

「ちょっとムカつく」程度のことなら、別のことに集中して、思考を埋めるということは大いに有効だが、過去にいじめられた体験とか、幼少期の理不尽な思い出とか、繰り返し繰り返し反芻してしまうような、嫌な思い出に関しては、あえて徹底的にそのことに向き合うというのが一つの手段になる

実際に、シロクマの実験を紹介してくれた本の中でも、自分の頭の中に浮かんだ欲求をあえて「諦めて」受け入れてみるということが勧められている。「シロクマについて考えてもいいですよ」と許可されることで、逆にシロクマについて考えなくなるのだ。

「受け入れる」というのは「思考を行動に移す」ということではなく、「ああ、今自分はこういうことを考えているなぁ」と受け入れるということだ。「こんなことを考えてはいけない」と頭から思考を排除しようとすると、皮肉なリバウンド効果により、逆にその思考から抜け出せなくなってしまう。

自分は、約30年の間、親を悲しませないために「理想的な人間にならなければならない」と自分を律し続けてきていた。その間で、イジメとか理不尽な仕打ちとかを受けても、「これは自分で乗り越えなければならない試練だ」と厳しく自分を律し続けて、誰にもそういう体験を打ち明けるということをしなかった。

でも、それらのトラウマ的な体験は、何年経ってもずっと自分の頭の中に残り続け、ふとした瞬間にそのことを思い出しては、当時の怒りや恐怖が蘇ってきてしまう。いくら「今更そんなことを考えても無駄だ」と感じても、実験が証明しているように、思考は制御できなかった。

カウンセリングを始めてから、自分はそれらのトラウマ的な体験を全て、Wordで文章化して、カウンセラーさんに見てもらった。そうすることで、格段に、過去のトラウマを思い出す頻度が減った。

「文章化する」というのは、自分には非常に効果があるように感じた。一度文章化して、なおかつプリントアウトしてしまえば、それらのトラウマ体験はもう思い出す必要がないのだ。なぜなら、常にプリントされた状態で、そこに止まり続けるから。必要なら、それを読みたくなったら、それを読めばいいのだ。あえて、自分で思い出す必要はない

思うに、自分で制御できない、反芻してしまう思考というのは、自分自身、心のどこかで「忘れてはいけないこと」と認識しているのではないだろうか?生命を脅かすくらいなトラウマ的な体験ならば、また同じような状況になれば、それは自分の命を失うことになるかもしれない。脳が本能的にそういうことを感じて、「これは危険だぞ!ちゃんと記録しておけ!」と自分にメッセージを与えてくれているのだと思う。

そういう「警告メッセージ」には一度、素直に従ってみるのがいいのかもしれない。ちゃんと、Wordなり紙なり、文章化してしまうと、脳が「よしよし、ちゃんと記録したな!これで、ワシが警告メッセージを発する必要もないな。じゃあ、もう思い出さなくていいよ」と納得してくれ、警告メッセージが少なくなり、結果として、トラウマ的な体験を思い出すことも少なくなるのだと思う。

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