キョロ充とうつ病は両立しない

以前のブログで、自分がうつ病パニックになって、結果としてよかったと思える部分について書いた。

うつ病パニックになってよかったこと~トラウマは石碑~

うつ病パニックは良くも悪くも自分を変容させた。というか変容しなきゃいけない状況に追い込まれたということでもあるのだが…

一方で、長期間改善しない体調とか、シャレにならない慢性的な苦しさのせいで、なんだかんだで「うつ病にならなかった人生」の方が確実によかったなとも実感しているので「うつ病になってよかった部分もある」とでも思わなければやってられないということでもある。

キョロ充という言葉がある。定義的には「常に周りの目を気にしたり、いつも知り合いを探してキョロキョロしている大学生」のことらしく、うつ病発症以前の自分だなと思う(ただ厳密な定義的には「リア充グループの最下層」とのことなので、生涯を通じてトップカーストに所属したことがない自分には当てはまらないのかもしれない)。

自分が何が好きかも、何がしたいかもわからず、特定の趣味も特技もないし、そういうものを取得しようという興味もあまりない。それでいて、人からはカッコよく思われたい!一角の人だと思われたい!という思いでいっぱいで、何かしようという意欲はあるのだけど、行動に結びつかない。

結果として、ドストエフスキーなどの昔の名作と呼ばれるものをただただ読破したり、人一倍試験勉強したりして、それが本当に自分がしたいことなのかもわからないまま、変な方向に突っ走って、一角の人になろうとしていた青年期だった。

自分という核がなく、ただ人からカッコよく思われたかった自分は、研究室で自分のリミットを越えても自分を労わることができずに、うつ病パニックを発症した。

そして「人からカッコよく思われるために頑張る」という行為に割くエネルギーがなくなってしまった。毎日、最低限の生活をすることに一杯一杯で「ああ、今の自分ダサダサだな…」と落胆しても、その状況を変えようとする意欲やエネルギーが湧いてこなくなった。

結果として自分は「キョロ充」は卒業できた。

全てのキョロ充に当てはまるかはわからないが、キョロ充は自分の好き嫌いがわからない、あるいは否定されてきたという人に多いのではないかと思う(自分がそうだった)。家庭教育が厳しいものだったりして、自分がテレビゲームやバラエティ番組が好きだったりしても「そんなくだらないものはするな!」と否定され、代わりに「教育にいい、こっちにしときなさい」と自分が好きでもないものを無理やりやらされる。そして、高校を卒業するまでの18年間それが続いて、自分の好き嫌いの感情を無視することが当たり前となる。

自分の場合は「好き」の感情は、両親から肯定されることは多かったのに対して、「イヤ!」とか「嫌い!」の感情を受け入れられなかったことが多かった気がする。そういう子供のネガティブな感情は「いい子に育てなくてはいけない」という強迫観念に囚われていた両親にとって、何より邪魔なものだったのだと思う。

うつ病発症以降、超絶ダサダサな自分になって、落ちるところまで落ちて、「もうどうでもいいや」と思えるようになり、自分は少し「子供返(こどもがえり)」して、30歳になってからイヤイヤ期が訪れた。周囲から見てどんなに良い物や人でも、自分がイヤだったら素直に「イヤ」というようになった。

不思議なことに、「嫌い」が言えるようになると、自分の「好き」がより明確になる。「あの人に対しては嫌という感情が強いけど、この人には抱かないな」とか、自分が何が、どういう人が好きかがよりくっきりと見えてくる。

「子供のうちにエネルギーを自分のためにたくさんそそいで、余裕が出てきてから他者にエネルギーを与える」というのが生物としての一般的な成長過程だが、自分みたいにキョロ充だったり、アダルトチルドレンだったり、うつ病を発症したりする人は「子供のうちから他者にエネルギーを注いで、自分のエネルギーがなくなり、枯渇してどうしようもなくなってから、自分にエネルギーを注ぎ始める」という逆のプロセスをたどるのである。

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