小さな否定のようなものに対する対処法

自分は学生時代の研究室で自己愛が支配する自己愛の巣窟みたいなところで、一生分の嫌な思いをしてきたわけだが、仮にそういう「ブラック職場」「モラハラパートナー」「毒親」等の劣悪な環境に身を置かなかっととしても、どんだけホワイトな環境だったとしても、大なり小なり嫌な思いをしたり、他者の発言に傷ついたりするのが今生である。一方で、大なり小なり楽しいことを享受できたりするのも今生である。

自分が今のアメリカの職場に身を置いてから、気のおける友人関係に恵まれてからも、時折、「嫌だな、めんどくさいな」と感じる経験をする。それは当然で、税金みたいなものなのだが、これまでの30年以上の人生でたくさんの類似経験をしているのに、全く俯瞰したり、記述したり、改善案が出せていなかったりするのも、研究者としていかなるものかとも感じ始めている。

研究は「トライアンドエラー」と「トラブルシューティング」そのものだったりする。その前に「仮説を立てる」という段階が入るのだが、「トライアンドエラー」の回数と「トラブルシューティング」の技量が研究者の能力そのものだと思っている。いくらいい仮説を持っていても、実際に「トライ」してみないと結果はわからない。ゆえにたくさん「トライ」できる体力を持ち合わせている方が、他者より早く、多くの結果に辿り着ける。また「トライ」を繰り返す体力を持ち合わせていたとしても、その過程で生じてくる問題「エラー」を解決「トラブルシューティング」できないと、「エラー」の部分で「行き止まり」になり、正しい結果が得られない。ゆえに「トライアンドエラー」のサイクルを正しく回し続けるために、「トラブルシューティング」の技量が極めて重要になってくる。

ちょっと話はそれたが、他者と交流することが「トライ」でその過程で生じる軋轢が「エラー」だとすれば、その「エラー」を是正するのが「トラブルシューティング」だ。今回自分が書こうと思っているのは「是正すべきかどうか微妙なラインのエラー、だけどその小さなエラーも積み重なるとストレスになる。小さなエラーだがガン無視し続けると大きなエラーになる」みたいなものである。

その前に、自分が経験してきた嫌な思いを、よくまとめてくれたブログ記事を紹介したい。自己愛性人格障害を研究してまとめている方のブログで、自己愛被害の大半のモデルはこのブログの中で紹介されていると思う。下記の記事では自分がここ数年間まとめてみたかった「小さな否定のようなもの」がうまくまとめられている。

小さな嫌がらせを執拗に繰り返す自己愛性パーソナリティ障害

自分の属性とか所有物の否定

自分が対処に困るなあと思うのは、自分そのものでなく、自分の属性とか所有物が否定される時。例えば自分の出身地とか方言の悪口を言われるというものだ。

自分は関西出身なので「関西弁」とか「関西人」の悪口を、本人の目の前で言われるということが、今まで多々あった。ちなみに自分は関西以外では標準語を喋るタイプの、謙虚というか気の小さい関西人なのだが、それは経験上、関西以外で関西弁を喋ると怪訝な顔をされることが多かったからである。

それは年齢的なこともあったのかもしれない。今でこそ、日本が敗北を受け入れざるを得ない斜陽国家になり、敗者の気持ちがより身近になってきたため「弱者にいたわりを」という風潮が強くなってきたが、自分が過ごしてきた10数年前の10~20代前半は、日本は傾きかけてはいたものの、まだまだ降参していなくて、「ついてこれない奴が悪い」という風潮で、弱者はただ無視される存在だった。

そんな風潮だからか、また舐められやすいタイプだからかわからないが、自分がその場にいるにも関わらず、全く気を使われずに、集団で関西人の悪口を言われるということが多々あった。もちろん自分は生まれた関西が好きだし、吉本新喜劇が好きだし、関西弁が好きだから、そう言われると少しというか結構嫌な気持ちになるのだが、これの対処が極めて難しいのだ。

一つは自分が直接攻撃されているわけではないということ。自分の属性が攻撃されているだけなのだ。また悪口とはいえ「関西人滅びろ」みたいな強い言葉ではもちろんなく「喋り方が嫌だ、変だ、気持ち悪い」くらいな手前、それすら指摘して禁ずると「愚痴も言えないのか」と思われたり「攻撃するつもりはなかった」とか言われたり、なんともどうしようもない帰着になる。それくらいの否定だと「おい、ふざけんなよ!」とも声を荒げることもできない。

また二つ目は相手に本当に攻撃の意志があるか見極められないということだ。自分は彼らの前で関西弁を喋っていない手前、彼らが直接自分の喋り方を指摘しているわけでない(状況として、自分が関西人であることは知られていた)。

「関西弁は喋っていないけど、相手は関西人だから、関西弁のことを悪くいうのはよしておこうか」というような細やかな気遣いは、仮に相手に悪意がなかったとしても、相手がいい人でも、全員が全員できるほどの気遣いでもないと思うのだ。ただのKYというか、気が付かなかっただけで、悪意のないケースも往々にしてある。

一方、これは学生時代の研究室の話で、当時の研究室の状況を考えると、少なからず悪意のあるものだったと思っているが、自分が論文を投稿したジャーナルとか参加した学会を悪く言われるということが何度かあった。例えば、自分の論文がジャーナルAに掲載されたのを知っているのに「ジャーナルAはよくない」と隣で会話されたり(面と向かってではない)、自分が学会Bに参加したのを知っているのに「学会Bに参加するくらいなら、学会Cに参加した方がいい」と隣で会話されたり(面と向かってではない)、会話に割って入って反論するほどではないけど、少なからず傷ついて、もやもやした感情を家のふすまを殴りまくって解消していた。

本当にずるいなと今でも思う。

論文や学会というのは自分の人生の時間の大半を捧げているものなので、それを否定されるということは、曖昧な小さな否定であっても傷つくものだ。

それよりはもっと低レベルで、今となっては持ちネタの一つにもしているのだが、当時の研究室のスタッフで、食堂で自分が頼んだものを見て、自分が食べる前に「うつなまさん、それこの前頼んだけど、美味しくなかったよ」と言ってくる人がいた。謎発言すぎるし、テンション下がるし、気持ちも悪い。それもその発言は一度や二度ではなかったのだ。人が食べようとしてる前にそんなこというか?そのスタッフとは、その他にも賞味期限が切れかけた食品を自分に押し付けて来たりして、ダイレクトに嫌なことを言われたりもして、仲が悪くなっていった(当たり前だ)。

何が悲しいって、属性や所有物を否定されることもそうなのだが「細やかな気遣いが全くされない」という”Disrespectful”な状況が、たまらなく悲しかった。「こっちは気を使って、可能な限りそういうこと言わないようにしているのに、この仕打ちはなんなんだ」と。以前の研究室で自分はサンドバッグ同然だった。

Ava Maxも言っていたが”Disrespectful”な態度をとってくる人には”Disrespectful”な応対をしていい。じゃないと心がもたない。若き日の自分にそう言ってあげたい。

アメリカに来てから、年齢的なこともあってか、そういう機会は減った気がするし、大雑把に感じられるアメリカ人が、いや多国籍国家のアメリカだからだろうか、人の属性を否定することに敏感な人が多いような気がする。

例えばだが、日本人の前で日本のことを否定したり、インド人の前でインドのことを否定したりすることは、争いの元となる危険な行為なのである。たくさんの争いをしてきて、争いに敏感な地域というのは、案外他者に対するリスペクト(相手の大切にしているものを大切にしてあげること)とか、不必要にマウントをとって、相手の気を悪くしないということが、日本みたいに平和な国よりも重要なのかもしれない。

なので、こちらではそういうことを経験する機会が減ったのだが、日本人付き合いの中で、自分が買ったランチに対して、値段を聞かれて「高いな」と感想されることがしばしばある。これもなんとも微妙な感情が自分の中に渦巻く。決して傷つきはしないけど、自分が損している奴みたいで、少し嫌な気持ちになる。

「自分もそういうこと聞いていいのかなぁ」とも思うのだが、自分は人が食べているものに対して「それいくら?」とあまり聞こうと思わない。嫌な思いをさせてやろうとか、仕返しをしてやろうとかではなく、そもそも「いくらだろう?」という疑問があまり湧かない気がする。

食べ物とか服とか、人の所有物の値段って、そもそもあまり聞かない方がいいのではないかと思う。気のせいかもしれないけど「不必要に人の物の値段を尋ねる人」というのは日本人に多い気がする。

解決策とか対処法

さて、これらの微妙に嫌な思いをすることに対する対処法だが、色々思考を巡らしても、やはり明確な解決策というのはないように思う。

というのも「黙ってニコニコ、ヘラヘラしてたおかげで、余計な争い事を生まずにすむ」というメリットもあって、実際に上記の値段を聞いてくる友人は自分にとって、すごく大切な友人でもあったりするのである。

「相手の言動の小さなアラをピックアップして怒ること」をアメリカでは”Take it personally”とか”it becomes personal with me”とか言ったりする。バスケの神マイケルジョーダンが自他共に認めるそういう人で、「値段を聞いて、”高い”と言ってくる人」に対して、執拗に反撃したりするようなタイプなのである。

マイケルジョーダンはこの過剰なまでの攻撃性、競争性によって現役時代、NBAという最高レベルの競技において大成功を収めたが、引退後はむしろその過剰なまでの攻撃性によって、友人を遠ざけてしまっている。逆に自分は、競争とか争いが苦手で、常に自分が手を引いてヘラヘラしてきたタイプだが、おかげで友人らと繋がっていられる。

今生は、点を多くとった方が勝ちのスポーツほどは、単純ではないのである。

上記のブログの作者のナルさんは「記録すること」を対処法にあげているが、自分もこのように話のネタにしたり、ブログのネタにしたりする以外の対処法はないように思う。一方で、かつての自分のように誰にも不満を話さずに、抱え込んだり、黙り込んだりすることだけはよくないと思う。

でも、それ以外に明確な対処法はない。残念ながらこの世には「(その時々の自分の境遇、能力によって)我慢以外の解決策がない」という場合も確実に存在する(と思っている)。

それ以外は、自分のためにお金を使ったり、自分の楽しいことをして、忘れて、気を紛らわせたりするしかない。これはどんな悩みにも共通して言えることである。人間は一度に二つ以上のことを考えられないので、何かすることで、悩みが頭にない時間を増やすのである。

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