アメリカに来ると日本人が優しくなる

変な話だが、アメリカに来てからの方が日本人の友人が増えた。思春期以降、具体的には小学生の高学年から、自分は対人関係がうまくいきづらくなり、なかなか付き合いの長い友人というのが出来なくなってしまった。その都度、飲みにいく程度の友人はいるのだが、所詮はそこまでで、それ以上踏み込むこともなかったし、何より仲違いする友人がたくさんいた。中森明菜の「飾りじゃないのよ涙は」にある「そして友達が変わるたび、思い出ばかりが増えたけど」みたいな感じだ。

自分は誰かに攻撃的な人間ではない。自分から誰かを直接傷つけることのないように、石橋を渡るかのように言葉を選び、対人関係に神経をすり減らしてしまう方だ。それくらいに、人から怒られるのが苦手だし、人が苛立つのを見るのも苦手だ。かと言って、人から攻撃的な言葉を受けても、内心めっちゃ腹が立つのだが、揉め事が怖くて、自分から引いてしまう。怒られることがトラウマなアダルトチルドレン気味である。

そんな、誰も攻撃しないし、反撃すらろくに出来ない人間なのに、日本にいる時はよく人と揉めて、関係が拗れることがあった。自分の場合、攻撃はしないけど、服従もしないという所がある。具体的には「自分の好き嫌いを他人に合わせない」という性質で、これがあるが故に人とうまくいかないことが多かった。

日本にいる時は、人や物の好き嫌いを多数派に合わせないと、自分も弾かれてしまうということが多々あった。自分も、もちろんそういう状況はわかっていたのだけど、どうしても自分が好きな人のことを嫌いと言ったりすることができなかった。自分の好きな人のことは、好きでいたかったし、嫌いな人のことを無理に好きになることもしたくなかった。人によって、その閾値は異なると思うが、それが他の人よりも高かったように感じる。爪弾きにあっている人と自分だけが仲良くしている、ということが中学生以降よくあった。

その人のことが嫌いでない、ということももちろんあったが、そういう誰かが弾かれている状況が自分自身つらかった。可哀想だと思った。その爪弾きにあっている理由は単純に「ちょっとキモい」とか些細なことなのだ。なんというか、もし「誰かを殺した」とか重罪を犯した場合、そういう報いを受けるのは理解できるのだけど、「ちょっとキモい」というだけで「仲間外れ」という重い罰を受けるのは、なんかアンバランスな気がしてならなかったのだ。

話は戻るが、アメリカに来た当初、無人島にきているかのような感覚に捉われることがしばしばあった。周りに人はたくさんいるけれど、言葉が通じない。相手が何を言っているかもわからないし、自分が言いたいことも言えない。人はいるけど、人じゃないような。言葉が通じないとそれは人じゃないのかもしれない。

その孤独感というのは、体験したことがる人以外は、なかなか想像できないものだと思う。そして、それは自分以外の日本人もおそらくそうなのであろう。こっちにいる日本人は、知り合うと、よくつるむようになるし、お互いによく助け合う。それは、日本人が希少な環境の中で、目の前の日本人を大切にしないと、他に助け合える人がいなくなるからだ。多少癖がある日本人でも、日本語が通じない人よりは、断然付き合いやすいのである。

そういう環境下では、相手の多少の癖を許すようになるし、そうすることで自分自身も本来の癖というのを出しやすくなる。お互いの良し悪しを尊重し合うようになり、人間的に少し寛容にならざるを得ないのだ。アメリカに来てから、「日本にいたら絶対に仲良くならなかっただろうな」という人とも、すごく仲良くなった。逆に日本で仲違いしていた人とも、「アメリカでなら仲良くなれていたかもしれないな」と思うこともある。

少し、想像して欲しいのだが、例えばあなたがあるグループからいじめられているとして、そのいじめの主犯格の人と2人で無人島に閉じ込められた場合、その人はあなたをいじめ続けるだろうか?おそらく答えは「ノー」だろう。無人島で一週間もすれば、いじめの主犯格も物凄い孤独感に襲われて、あなたを求めるようになる。他に助けがない状況だと、目の前にいる相手のことを、それが誰であっても、尊重し大切にするようになるのだ。

だから、もしあなたが対人関係で、うまくいってなかったとしても、それはあなたの本質に起因しているのではなく、環境がそうしているのだということを、頭のどこかで覚えておいて欲しい。あるコミュニティー内でいじめをする人というのは、対人関係である意味恵まれているから、その人をいじめるのだ。その人がいなくなっても、他に仲間がいるから。日本は当たり前だが、日本人で飽和している。少し、日本の外に出て、世界を体験してみれば、あなたの感覚ももしかしたら変わるかもしれない。

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