人生の踊り場

先週カウンセリングに行った。ワクチン接種も進み、先月から対面でのセッションとなった。やはりカウンセリングは対面で行う方がいい。

最近は本も読まなくなったし、ブログも書かなくなったという話をした。アメリカに来てから数年間、自分の中の苦しみから抜け出すために、これでもかというほどメンタルヘルス関連の本を読み漁り、それをブログという形でアウトプットしまくった。多い時は年間80冊本を読み、昨年から始めたブログでも、数千字を超える記事をいくつも書いた。

自己理解も十分に進み、これ以上することがなくなってしまった。あとは、これまでに得た知見を財産に、行動という形で人生を進めるだけになってしまった。

生きることへの苦しさ、生きづらさがエンジンとなって自分をこれまで突き動かしてきたが、このタイミングでそのエンジンが取れてなくなってしまった感じなのである。むしろいいことなのだろう。というか苦しさを無くすために読書とブログをしてきたわけだから。あとは、新しい行動を自分に追加していくだけなのだが、残念ながらというべきか、そういう気持ちも芽生えてこない。

だから最近は毎日を惰性で生きている感じだ。仕事から帰っては、何回も見続けたYoutube動画を繰り返しみて、何回もやり尽くしたゲームを惰性でやって、だらだら夜を過ごして、だらだら翌朝起きる。そんな状態だ。

カウンセリングの先生から「今あなたはアイドリング状態、階段の踊り場に行き着いたのかもしれませんね」ということを言われた。本当にそんな気がする。せっかくの留学生活がもったいない気もするが、でも今は踊り場でくつろげばいいのかもしれない。上の階に行くのはしばらく休憩だ。

思えば思春期以降、常にエンジンが搭載された状態で、目標に向かって生きてきた。こんなに手持ち無沙汰になったのも久しぶりな気がする。多分、小学生の頃以来だ。あの頃は何の目標も持たずに、というか持つ必要もなく、学校へ行って、友達と遊ぶだけだった。30歳を超えて、20数年ぶりにそんな状態になった。我ながらよく頑張ったと思う。

自分は先天的な「ねばねばベキベキ思考」の持ち主だと思っていたが、実はそうではなかったのかもしれない。強烈なネバベキ思考になったのは思春期以降なのだ。

何をするにもかしこまって、理想像を、目標を先に作り、その道を外さないように生きてきた。今このタイミングで、理想像を作る癖、目標を作る癖が自分から薄れつつあるのかもしれない。そうあって欲しいと自分自身思う。

カウンセラーさんからは「オープンマインド」でいることを勧められた。周囲の刺激をシャットアウトするのでなく、その刺激に従ってみる。目標は持たなくていいが、でもやりたいという気持ちに敏感に、そしてとりあえずやってみることを心がけて、生きてみる。

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