わたしは”Mr.寄ってない”

私的なこと

中学生の頃「寄ってない」というフレーズが流行った。主にスクールカーストのどの層にも属せないような人間を揶揄する言葉で、自分はその「寄ってない」奴の最たる例であった。

自分は決して喋るのが苦手なわけでなく、小学生の頃まではクラスでも真ん中よりちょい上くらいの立ち位置で、友達もたくさんいて、放課後は毎日のように誰かと遊んでいた。

ただ小学生5年生の頃、ちょっとした事件が自分の中で起きて、それ以降、一気に性格が暗くなった。いじめられただとか、そういうことは一切なく、表面上は何も起こっていないのだが、それは自分の中の一大事で、そのことに関しては自分の抜毛癖をまとめる過程で、記述しようと思っている。

わたしの抜毛とわたしの強迫-1

ただ中学に入ってから、自分は決定的にスクールカースト上位の輪の中に入れなくなった。

なぜか?それは、家でテレビが見れなかったからだ。

当時我が家は父親がリビングに一台だけあるテレビのチャンネル権を持っており、基本的にサンテレビで阪神戦がつけられていた。阪神戦が終わるとニュースステーションに切り替わり、自分はそれくらいの時間には布団に入っていたように記憶している。

小学生の頃は、名探偵コナンやクレヨンしんちゃんといったアニメは時折見させてくれていた。だが中学生になると、その手の子供向けのアニメはあまり見なくなっていき、学校での話題も流行りのバラエティ番組や音楽番組やドラマがメインになっていく。だが、両親はそのような番組を「低俗で教育に悪い」とみなし、自分達に見させてくれなかった。

自分はバラエティ番組が見たくてしょうがなかった。めちゃイケやワンナイが見たくてしょうがなかった。みんなの輪に入りたくてしょうがなかった。でも、それがどんな番組なのか、全く分からず、みんなが昨日見たテレビの話題で盛り上がっている中、その番組内容を想像する以外のことにすることがなかった。

新聞のテレビ欄を見て、一文の概要を読んで、どんな内容の番組なのか想像したり、みんなが話題にしていた題名のわからない番組をテレビ欄から探し出そうとし「みんなこの番組のことを話していたのだろうか?」とかそんなことばかりをしていた中学時代だったような気がする。

余談だが、類似したエピソードを学生時代の教授も持っていた。彼も家にテレビがなかったのか、あったとしても両親から禁止されていたのか、テレビ欄でテレビの内容を想像し、想像でしゃべり、みんなの会話についていっていたそうだ(自分はただ聞き耳を立てているだけで、そこまでのことはしなかったが)。自分がPTSDを発症した主な原因の一人であるが、教授も若き頃苦労していたのだなと、少しシンパシーを感じた瞬間だった。

同様のことが、音楽やドラマにもあてはまる。みんなが一緒になって口ずさんでいる音楽が何なのか気になって気になってしょうがなかった。でも当然のことながら「それなんて言う音楽?」なんてことは聞けず、覚えている歌詞を頼りに、TSUTAYAに行き、アルバムのタイトルや、歌詞カードから「この音楽なんじゃないか?」と類推するようなことをやっていた。なぜCDを借りないのかと言われると、CDを借りれるほどのお小遣いをもらっていなかったからだ。記憶が定かではないが、中学までは固定のお小遣いをもらっていなかったように思う。

我が家は「交渉」みたいなことが非常にしづらい環境であった。何か欲しいものをおねだりすると、父親からすごい剣幕で睨まれたり、母親が悲しそうな顔をしたり、と言外に交渉の機会そのものを断とうとしてきた。だから、高校を卒業後、家を出るまで、お願いらしいお願いはほとんどしたことがなかった。誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントも小学生までで、中学以降はほとんど何も買ってもらったことがないように記憶している。

貧しかったことが一因でもある。当時父は倒産間近の会社でサラリーマンをしていて、常時不機嫌で、ビールも買えず、発泡酒ばかり飲んでいた。常にイライラしていたように記憶している。学校での悩み事を相談できるような余裕が父や母にもなく、子供のうちからどんな悩み事も自分で解決しなければならなかった。ただ、悩みが相談できないというのは貧困というよりも、父と母の繊細さに起因していたと思う。二人とも繊細すぎ、子供が学校でいじめられたとか、学校や部活で友達付き合いがでうまくいっていないとか、そういったことにコミットメントするだけの強さと余裕がないような感じで、今現在、二人と同居していてもそれを感じる。自分がパニックで薬を飲み始めたことをあまり受け入れられず「別に飲まなくても大丈夫なんでしょ?」とか自分の病気そのものを否認したがる。

「そんなの大したことない。みんな同じように悩んでる。みんな同じように苦しい。だからほっといても大丈夫だ」と問題をディスカウントされ、忍耐力のみで悩みをやり過ごす子供時代であった。

「つらいのはお前だけじゃない」あなたの苦しみ「ディスカウント」されていませんか?

そんなこんなで、みんなの輪に入りたいけど、テレビも見れず、音楽も聞けず、お小遣いもなく、それが全く叶わない、悶々としたつまらない思春期が中学生からスタートしていた。

だが、思春期真っ只中の自分は当然ながら、娯楽に飢えていた。当時の自分に許された娯楽は、「既に家にあるもの」、もしくは「親が観ているもの聴いているもの」だった。スーファミやプレステは小学生の頃に買ってもらったソフトを中学3年生まで、受験期に母親に禁止されるまで、ちょくちょくやっていた記憶がある。またプロ野球のシーズンは父がずっとサンテレビで阪神戦を見ていたので、一緒になってそれを楽しんでいた。ずーっと阪神戦ばかり見ているため、野球部でもないのに(なんならキャッチボール以外やったことがないのに)、タッチアップ、フォースアウト、スリーバントその他諸々の細かい野球ルールまで完璧に把握していた。中学くらいの時は星野と岡田で優勝したり、藤川が全盛期で矢野が中腰になって三振を奪っているのを見れたりと、かなり面白かった。

ドラマは北の国からを見ていた。我が家で唯一見ていたテレビドラマが北の国からだったのだ。もちろん、当時はすでに連ドラの時代は終わっていて、自分が中学に入る頃くらいに「遺言」が放送された。「遺言」を含めて、「時代」もテレビ録画したビデオテープがあり、繰り返し視聴していた。

ここからが自分の「奇行」の始まりだと思うのだが、中学生の夏休みに、自分はふと、北の国からを全部制覇したいと思い、レンタルビデオ屋に繰り返し、過去のシリーズを借りに行き、本当に連ドラ時代から含めて、全制覇したのだ。お小遣いも貰えていなかったのに、なぜレンタルビデオを借りることができたのか、親が見るものだから許しをもらえたのか、記憶が定かではないのだが、とにかく、同級生の誰も見ていない北の国からを全作視聴したのであった。2000年代初頭の中学生の話である。

本当は同級生について行きたく、ワンナイやめちゃイケを見たかったのだが、怖くて交渉できないし、いまさら頑張ってもついていける気がしないし、そうなるともう「独自路線」を歩むことしか自分には選択肢がなかった。北の国からを今更全制覇したところで、誰とも共通の話題もできないし、内容についてディスカッションすることもできないのだが、自分は誰とも語り合うことなく、物語を自分の中に蓄積させていった。

そういう、同級生の誰も知らないが、親が観ているから許諾されている、古いドラマや映画や音楽ばかりに触れていた、本当に「寄っていない」思春期だったのだ。それは「北の国から」以外にもたくさん存在し「男はつらいよ」「ビートルズ」「エルトンジョン」「尾崎豊」「ユーミン」「中島みゆき」といった80年代に一世を風靡したエンタメばかりが自分の中に蓄積されていった(のちに気づくのであるが、父も母は自分たちが思春期の頃は、当時のトレンドにがっつり触れていたのである。ところが、自分たちの子供にもそういう、その時の流行を与えないと、学校生活が苦しくなるということが、全く認識できていなかったようなのである。彼らが子供たちにテレビを見させなかったのは、自分たちにとって面白くないものであったからなのであった…)

中学・高校と多感な時期に、あまりに「寄っていない」ことに慣れすぎたため、大学生になり一人暮らしを始めた後も、自分は流行について行こうとせず、家にテレビも置かず、ネットもしかず、しょっちゅうTSUTAYAで昔のヒット映画を借りて観てを繰り返し、当時はそれに加えて、ドストエフスキーとか古典小説を努めて読み耽るということも行なっていた。「寄っていない」あるいは「寄れない」自分を肯定するために、意固地になっていたのかもしれない。

時折、もし普通に親に交渉できて、みんなと共通の話題で盛り上がれる、普通の思春期を送れていたら、自分はもっと違う人生を歩めていたのだろうか?と思う。それくらい、自分は青年期以降苦しみ、挫折し、現在はデエビゴ錠を飲みながら、実家から通勤している状態なのである。

だが、一つ言えるのは、寄っていない思春期であったのだが、自分がその時期に嗜んだ、昔の作品たちは紛れもなく名作であり、ばり面白くて、実際自分はめちゃくちゃ夢中になってそれらの作品を楽しんでいたのだ。今は「男はつらいよ」をU-Nextで全制覇しようとしていて、先日は旅行で柴又を訪れ、感動に浸っていた。音楽も結局、思春期にたくさん触れたメロディが自分にはマッチし、アメリカでも「尾崎豊」「五輪真弓」「エルトンジョン」ばかり聴いていた(留学後期にAva Maxにハマり、それ以降は現在に至るまでAva Maxばかり聴いていることはまたいつか別で書きたい)。おそらくだが、五輪真弓の「残り火」を車で流しながら、Rockville Pikeを走ったことがあるのは、長いRockville Pikeの歴史の中でも自分だけなんじゃないかと思う。冬の寒い時期にNIHからRockville方面に北上する暗い、でもわずかな灯で綺麗な帰り道と、五輪真弓の「残り火」が異様に自分の中でマッチしていた。今でもたまに「残り火」を聴くと、Rockville Pikeの感じやMarylandの紅葉の時期を思い出すのである。

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