人生を通じて、常にシリアスな人が自分のそばにいて、それに振り回されて生きてきている。
一番身近なシリアスな人は両親、特に母親である。両親とも感情的で子供相手に「叱る」ことができず、「怒る」ことにより恐怖で押さえつけられることが多い子供時代であった。特に母はその頻度が多く、尚且つよくわからないことで怒る人だった。
おそらく、「ちゃんと子育てをしなきゃいけない」という強い禁忌と「人に相談できない」性分が相まって、「そんなに怒るべきことではない」ことで「ちゃんと怒らなきゃ」と感じ、ヒステリックに感情的に叱られている感じだった。
妹は母と戦う道を選んだが、自分は「怒られないように先回りして機嫌を伺う」道を選んだ。これが自分の欲求を後回しにする性分につながり、アダルトチルドレン気味に育ってしまった大きな要因だと思っている。
幼少期から、今も、とにかく人に怒られることを避け続けるような人生である。いまだに自分より立場の上の人間に対して苦手意識がある。
小学生の頃に通っていたスイミングスクールに「Mコーチ」という女性のコーチがいた。そのコーチは時折、ランダムに現れて、かなりハードなメニューを児童に課して、ノルマをこなせない児童をガチギレするのであった。例えば、50mを1分以内に泳ぐメニューを10本するとか、そういうタイム制のメニューであり、当たり前だが全小学生にそんな体力があるわけなく、一本全力で泳いで、55秒くらいで50mを泳ぎ終えて、ヒイヒイ言っている中、5秒後くらいにはまた50mを泳がされるのである。当然、そんなメニューをこなせるわけもなく、途中で足をつき、水に入ったまま、終了時間が過ぎても、泣きながら怒られるのである。
自分はいつもそのコーチの存在に怯えていて、来なければ安堵し、来たら絶望した。母にそのことを告げてもわかってもらえず、休まさせてもらえず、自分は鬱々とした気分のまま、ビクビクしながら水泳に通い続けていた。
今にして思えば、Mコーチは大学生のバイトで、小遣い稼ぎのために、望んでもいない小学生にきついメニューを与え、できないと怒鳴りつける、頭のおかしい人間だったのであるが、小学生にそんなことがわかるはずもない。今だったら、周りの大人が止めたりするのであろうが、時代的にそういう鬼コーチみたいなのが許されている時だった。
学年が上がるとMコーチは来なくなった。当時はなんでか全くわからなかったが、冷静に考えて、就職したのであろう。そのスイミングスクールには卒業文集を書くという文化があったのだが、私と友人たちはその卒業文集にMコーチの悪口を書きまくって、なんの監査もなく、そのままの文章が採用され、文集となり、みんなに配られて、ゲラゲラ笑っていた。
中学生以降は「平成のバスケ部」といういかにもきつそうな部活に所属し、顧問と先輩の上下関係というものの中に怯え続けた6年間であった。特に高校時代のバスケ部は先輩も顧問もみんなシリアスで、自衛隊にいるみたいであった。プロになれるはずなんてないし、県大会を勝ち上がれるほどのレベルでもないのに、テスト週間まで全力で部活をして、一体なぜみんなあんなにシリアスで、本気で、人に当たり、人を鍛え上げようとしていたのであろうか。
日本にいる時で、シリアスな人から離れられたのは、大学1~3年生のごくごくわずかな時間だけだったように思う。その間も友人付き合いも彼女作りもうまくいかず、勉強とバイトだけが自分を裏切らないような日々だったが、一人暮らしして自炊したり、ドストエフスキーとか本を読みまくったり、いい時間だったようには思う。もう少しあの時間を体験してみたかったな。
大学4年生から博士3年までの6年間はシリアス地獄だった。自己愛性人格障害の教授、先輩、境界性パーソナリティーのMちゃんとその家族、シリアスな人たちの期待に取り込まれ、抜け出せず、エネルギーを搾取され続けて、うつ病・パニック・複雑性PTSDを患って、現在もその後遺症と戦っている。
アメリカにいた7年間はシリアスな人たちから解放された、自分の青春そのものだった。またあの頃に戻りたいと思うし、頻繁に当時の写真を見返して、幸せな気分になれる。自分の人生にシリアスじゃない期間があって本当によかった。
でも、アメリカ一人暮らしでは、日本のシリアス地獄時代に抱えた、うつ病・パニック・複雑性PTSDの症状がどうしても一定以上よくならず、それはどうしても苦しい症状で、ビザが切れるタイミングで自分は、家族の顔を見ることと、症状の改善に期待し、日本に帰ることを画策した。
そこには多大な恐怖があった。自分が病を患ったのは日本のアカデミアというシリアスな空間が主な原因で、日本に舞い戻るということは、再びそういう環境に身を置くかもしれないということだった。
そして、不安は的中し、再びシリアスなボスが束ねる研究室に所属し、ビクビクしながら研究している。5月には自分の対処レベルを超えたパニックを経験し、精神科を頼ることになり、月に一回通院しながら、毎日睡眠薬を服薬しながら仕事をしている。
シリアスな人たちは自分で自分の機嫌を取ることができない、あるいは苦手で、その感情の処理をそれができそうな人に無意識に、あるいはそれらしい理由をつけて押し付ける。自分は常にその役を引き受け続けてきた。なぜだか、その期待を拒絶することができなかった。その期待を拒絶すると、もっと恐ろしいことが待ち構えているような気がした。
おかげで対処能力、あるいはトラブルシューティング能力みたいなものが幼少期から鍛え続けられ、自分が研究者として業績を残せたのも、アダルトチルドレンとして培ってきた対処能力・忍耐力みたいなものが非常に役に立っているような気がする。
母がもう少ししっかりした人なら、満たされた幼少期を送っていたら、自分は研究者になっていなかった、あるいはそんなに業績も残せていなかったかもしれない。
他人のシリアスを一身に引き受け続けて、自分自身の人生もまたシリアスな、あまり普通でないものに逸脱していった。
日本に帰ってきて、実家に寄生せざるを得ないくらい弱り果ててから、父も母も自分に気を遣ってくれるようになり、高校生の頃まで実家にいた頃のように、しつこく注意されたり躾されたりするということがなくなった。言葉に出して反省はしないものの、私の今の状況を不憫に思い、また孫ができたことで、自分の子育てを客観視できるようになり、自分たちの過去の教育も反省しているのかもしれない。
それでも、研究者としての自分を、母は諦めることができないようで、パニックになった時など、自分が「研究者やめる」というとものすごくシリアスな悲しそうな顔をして、なんとか引き留めようとしてくる。自分としては、研究者としてのプレッシャーと母のプレッシャーの板挟みにあい、これ以上シリアスさに押しつぶされそうになるのが、苦しくてしょうがないのである。
研究者なんて数多ある仕事の一つなんだから、そんなにシリアスにならないで「あっそ」くらいで、薄い期待で済まして欲しいのである。何も研究者を辞めてヤクザになろうとしているわけではない。そこまでのことをしようとしているのなら、シリアスに全力で止めるのもわかる。でも、そうではなく、体調が限界で、アカデミアから足を洗い、トラウマを想起しない、他の仕事をしたいと言っているだけなのである。息子が病院に通いながら服薬しながら研究を続けていることを、そんなに簡単に受け入れないでほしい。「しんどいなら、他にもっと楽な仕事がある」そう言ってほしい。
でも、そんな母がいるから、いいか悪いかはさておき、研究者を続けてこれた気もする。もし母があっけらかんとした、シリアスではない人だったら、自分は博士取得と同時に一般企業に就職していたような気もする。
長く生きていると、シリアスな人たち、全ての期待に応えられないということも体験し、実際、二人のシリアスな人から二律背反する期待をかけられたりして、どちらか一つの期待しか応えられず、片方のシリアスな人が急に自分の元から去っていく、ということもしばしば経験するようになった。
チープな響きだが、諦めずに長く生きてみることでしか、人生の結果はわからないのであろう。
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