アカデミア研究業界がもつ推薦書文化のしんどさ

相変わらず激務の中、何とか休み休み安息を見つけて仕事を続けている。今日からゴールデンウィークで4連休、ラボに行く必要はないが、デスクワークは進めなければならず、完全な安息というのはしばらく訪れそうにない。

複雑性PTSDを患っているせいもあるが、相変わらずあまりのプレッシャーに吐きそうで(実際えずきながら職場に向かっている)、全てを投げ出してしまいそうになるが、でも、アメリカから実家に戻って家族の顔を見れたおかげで、自分の研究生活というのをどこか「仮想空間」の出来事として捉えられ、そこまでシリアスにならないようなった(シリアスにならない様に努めているという方が近いかも)。仕事ができなくて、仕事ぶりが要求レベルに達せずに、PIに怒られようとも、研究結果が出なくて研究者人生が破綻しようととも、死ぬわけではないし、家族との時間が奪われるわけではない。頑張れるとこまで、頑張ってみて、ダメなら足を洗い、田舎で農業でも始めればいいだけの話だ。NIHでも業績を残して、研究者として誇れることはできたはずだ。あとはゲームのプレイヤーになったつもりで、この仮想空間で思う存分働いてみて、暴れてみて、ダメならこのゲームの中でゲームオーバーになるだけだ。それで自分の全てが奪われるわけではない。

ただ、時折そう自分に言い聞かせないと、研究世界に没頭しすぎ、ゲームと現実の区別がつかなくなって、シリアスになって眠れなくなったりしてしまうのだ。残念ながら、人間の脳、特に理性の部分は賢いようで、あまり賢くなく、丈夫ではなく、簡単に扁桃体が司る恐怖心に乗っ取られてしまう(アミグダラハイジャック・扁桃体ハイジャックと呼ばれる)。自分の人生を失わないためにも、自分は時折こうやって、ブログで自分の考えを整理して、メトロノームの揺れを小さくするように努めている。

今日はアカデミア研究業界が持つ推薦書文化について書いてみようと思う。

アカデミア研究業界にいると、しばしば上司(多くの場合、PI)からの推薦書が必要な機会を経験する。自分の記憶で、一番最初に推薦書が必要だったのは学振DC1~2に応募する修士から博士課程にかけてであった。

日本全土で行われていることではないが、日本の研究業界には、「推薦書を自分で書いて、それを推薦者に添削してもらったのちに、推薦者から提出される」という文化が存在する。実際に自分の学生時代の教授はそのような文化で育ったらしく、その文化を自分のラボでも適用していた。教授曰く「自分のアピールポイントを表現できない様では研究者として生き残っていけない」とのことだった。

そういう側面もあったのかもしれないが、日本の強烈な縦社会による「身分が下のものが、身分の上の尊い人の時間を使わせて、推薦書を書かせるなど、失礼にあたる」という考えが根底にあった様な印象であった。かくして自分は学振に応募した際の教授からの推薦書も、NIHにアプライする際の3通の推薦書も、推薦者になりきったつもりで全部自分で書いた。

1通なら何とかなるのだが、NIHに留学する際の、教授、助教、よそのラボの教授の3人になりきって、3通の推薦書を未熟な英語力で、内容が被らないように、うつ病急性期の体調激悪の状態で書いたのはなかなかの苦行だった。また、6年間もの間、朝から深夜まで、自分の人生と健康を犠牲にしてまで研究生活に身を捧げたのに、A4一枚程度の推薦文を書く労力さえ自分に使ったくれないことが心底悲しかった。

教授、助教は付き合いも長かった分、なりきって書くことはさほど難しいものではなかったが、よそのラボの教授になりきって書くのはなかなか大変だった。というのも、その教授には学位論文の審査をしてもらうときくらいしか、接点がなかったためだ。書くことが無さすぎたが、彼との少ない会話の中で、導かれる自分の人となりに焦点を当てて書いた記憶がある。実際に、その教授は人格者でとてもいい人で、審査の際の対面のミーティング時などに、結構ディープな話に付き合ってくれたりもしたのであった。

当時所属していた研究室は、教授が「他のラボはレベルが低いから、接する価値がない」といって、学生が他のラボの教授や学生とコミュニケーションをとることを極端に嫌った。「うちのラボは完璧なのに、なぜ他のラボに話を聞きに行く必要があるのか?」とメンヘラ彼女みたいなことをいう教授で、実際に他のラボと交流したりすると、冷遇され、しっかりと罰を受けた。その実、自分の研究室よりよその研究室の方がレベルが高いかもしれないことを恐れて、自分の完全性が損なわれることを恐れて、無垢な学生を洗脳し、お山の大将で居続けたいだけの自己愛性人格障害者であった、ということには、数年後、NIH留学期間中の猛烈な読書期において、自己愛性人格障害というものを知ってからであった。それまでは教授をサイコパスに近い何かだと思っていた。

どうにか3通の推薦書を自分で書き(要求されたのは3通であったが、2通目が受理された時点でNIH側での手続きが開始されたため、必要なのは2通だったのだと思う)、NIHに留学できた自分であったが、自己愛型の教授の支配下の鳥籠の中で育てられてしまった自分は、その後、非常に困った事実に気がついた。

それは「日本に自己愛型の教授以外にアカデミアキャリアにおいて頼れる存在がいない」ということであった。学生時代の他の研究室は、似たような分野同士で頻繁にセミナーを開催しており、他のラボの教授であっても、交流が育めるような健康的な状態であったのに対して、うちのラボは教授が「レベルが低い」と言って、その様な研究室間交流に一切参加しなかった。結果として、相談できたり、泣きついたりできる日本のPIがいない状態で、アメリカ研究生活が開始されてしまった。幸い、アメリカでは最高な研究室に所属することができたが、もし留学生活がうまくいかなかった場合、日本に帰りたくなった場合、自分は気軽に相談できる相手が日本にいなかった。

日本の教授を頼ろうものなら、なんだかんだ言いくるめられて、ラボに引き戻され再び奴隷労働を強いられるか、碌でもない研究室を勧められるのが火を見るより明らかだった。「これ美味しいよ」と言って毒饅頭を勧めてくる、サディスティックな側面をその教授から散々みてきたから。

自分が留学中、断続的に気に病んでいたことは「帰国する場合、推薦書誰に頼もう」ということであった。研究室を移る場合にしても、独立する場合にしても、推薦書が必要であるというのがこの業界のしきたりである。出身ラボの教授を頼ることが実質的に不可能で、かつ他のラボのPIとの関係をほとんど育めなかった自分にとって、それがずっと悩みの種であった。

少し角度は違うが、自分と同様に推薦書文化に悩まされる若手研究者に出会ったことがある。その方も自分と同じくNIHに留学する際に3通の推薦書が必要だったのだが、該当者が二人しか見つからなかったそうだ。そんな最中、関係性があまりよろしくなかった助教から「推薦書を書いてやる」と申し出があり、それをお願いしたそうだ。NIHにインタビューに行った際に、PIやスタッフから言われたことが、その助教からの推薦書に「こいつは採用するな」という旨が書かれていたそうだ。常識的に自分が推薦したくない人間の推薦書は書かないので、この推薦書がいかがわしいものであると疑われたのか、彼の人間性が問題ないものであることがインタビュー中に判明したからか、定かではないが、彼は問題なくNIHにポスドクとして採用された。

その彼は「推薦書文化は悪しき風習だと思う。その文化のせいで、研究内容について異論がある場合にもノーと言いづらく、イエスマンになってしまい、研究そのものにも悪影響が出る」と言っていた。研究に少し意見したくらいで逆恨みされるような環境で研究したくないし、多くのPIが人格的に成熟していて、そういう姿勢をサイエンティフィックに立派であると評価してくれるものと信じているが、学生時代の自己愛型の教授を含め、全てのPIが人格的に成熟していないというのは、致し方ないことなのかもしれない。

自分が日本に帰国する際の推薦書は1通でよく、自分はNIHのPIに書いてもらって、日本本帰国においてことなきを得た。がPIとして独立する場合は、3通程度が必要なことが常で、そうなった時に自分は誰に頼めばいいか、いまだに信頼関係ができている残り二人を決めかねている。NIHのラボ出身のPIならば3人以上いるのだが、同じラボ由来の3通で大丈夫なのか、日本で独立する場合、外国人からの推薦書3通で大丈夫なのか、そういうことはいまだにわからない。

よきメンターに出会い続けて、健康的な研究キャリアを送れている研究者が心底羨ましい。

ただ、この業界、推薦書などは比重がそれほど大きなものではなく、最も大切なのは「論文業績」なのである。自己愛型の教授に育てられ、複雑性PTSDを患ってしまった自分が、出身ラボの教授からの推薦書なしで独立に挑むというのは、ハードモードな研究生活ではあるが、複雑性PTSDを患ってしまった自分のサバイバーミッションでもあるかなと感じている。

人が遅かれ早かれ死ぬのと同じで、研究生活も遅かれ早かれ終わるし、研究生活はあくまで仮想空間の話で、論文が出なくても、PIになれなくても、研究生活の方だけがゲームオーバーになるだけで、死ぬわけではない。

だから推薦書のことなど、あまり気にせず、もう少し研究に没頭してみようと思う。

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