5月にパニックを発症して、2週間ほど仕事を休んだ。
5月15日(木曜日)、ボスの嫌な側面を見て、怒りと失望で頭が興奮してしまい、帰ってから一睡もできなかった。それは新たに入った学生のことで、自分が教育を担当している子に関することだった。怒りと失望で頭が真っ白になり、ずっと興奮状態にあった。帰るなり親に愚痴を喋りまくった。
厳しく、コミュニケーションの乏しい職場で、でも研究業績はレベルの高いもので、周囲にも優秀な人が多く、新参者の自分はどこかプレッシャーを感じながら、仕事を続けていた。NIHで友愛的な環境で働いていた頃とは違い、常に監視され働きぶりを評価されているような。そして、今までのブログにもたびたび書いてきたが、PIから叱責されたり、失望されたりすると、頭が過覚醒してしまい、丸一日眠ることができず、徹夜状態で、仕事に向かうということを昨年から度々経験していた。
これは自分が抱えている複雑性PTSDの症状の一つであった。実際には、そんなにビクビクする事案ではないはずなのに、過去のトラウマから、ちょっとした出来事でも、体が命の危機と錯覚してしまう。昨年に3~4回ほど経験した。今年に入ってからはちゃんと数えるようにして、1月に2回、2月に1回、一睡もできないということを経験した。
一睡もできないまま仕事に向かうのはハードだが、でも基本的にその1日で終わり、希死念慮や明け方の心臓の違和感といった、アメリカにいた頃に苦しんでいた症状が、良くなっていることから、自分はどこか、この「一睡もできない」というトラウマの再体験による過覚醒を「荒療治」また「良薬口に苦し」というふうに捉え、自分が複雑性PTSDを寛解させるために必要なプロセスを辿っているのだと、自分を納得させていた。
これまでの過覚醒はどちらかというと「クビになるかも」という恐怖心から来ていて、夜通しその恐怖に苛まれ、そうならないためにどうするか、ずっと頭が考えていた。でも今回に関しては「こんなボスのもとで働くんだったら、いくら優秀だろうが、クビになったほうがありがたい」という失望の方が大きかった。だからその夜は「もしかすると興奮はしてるものの寝れるのではないか?」と考えていた。
だが、一睡もできなかった。金曜日、「2月以降、全くなかったのに、久しぶりに寝れなかった」と親に不安を吐露し、ふらふらになりながら仕事をこなした。仕事が終わって、スイッチが切れるが如く眠りについた。
土曜日の朝(5/17)、目覚めると、いまだにボスに対して脳が怒っていることに気がついた。大抵寝たら忘れてリフレッシュした状態で目が覚めるのに、まだ怒ってると…銭湯に行ったり、散髪したり、活動は普通にできたが、その夜はまた一睡もできなかった。その時点で、だいぶショックを感じた。
今までも過覚醒して一睡もできないということが度々あったが、土日までは引きずらず、土日に寝溜めすることで、睡眠不足を解消できた。でも今週末はそれができなかった。朝になって母親に「もうダメかもしれない」と言った。
この症状の特徴なのだが、一睡もできなかった次の日の日中もまた眠れないのだ。何度か昼寝することを試みても、寝てるのだか、寝てないのだかわからない状態で、ずっと頭は活動しっぱなしである。薬には頼りたくなかったのだが、市販薬ならいいだろうと思い、薬局でアルパノールという漢方薬を購入して飲んだ。
その夜は眠ることができ、月曜日、仕事に向かった。だが、二日後の火曜日の夜(5/20)、また一睡もできなかった。その時はボスに対する怒りも消失し、研究室で、これといった出来事もなかったのにか覚醒してしまったので、相当混乱した。一睡もできない中、アメリカでお世話になっていたカウンセラーさんに真夜中e-mailした。近々セッションを受けさせてほしいと。
あまりに眠れない日が連発し、自分もどこか開き直ろうとしていた。二日連続で眠れない日はないし、きっとどうにかなるだろうと。映画「ファイトクラブ」の主人公も不眠で苦しんでいたし、自分もあんなふうにやけになって、不眠のまま突っ走ってやるんだと。
翌日、眠れないまま仕事をしていると、カウンセラーさんから連絡があった。e-mailでは大変心配してくれたが、内容は「その状態ではカウンセリングのセッションよりも、むしろ現地の医療機関と繋がって、薬を飲んだ方がいい」というアドバイスだった。7年近くお世話になっているカウンセラーさんで、今まで投薬なしでやってきたのに、急に投薬を勧められて、自分に対してさじを投げられたと思い、がっかりしてしまった。でも、あのポジティブな先生が、そう言ってくるくらい、自分の状態というのが良くないものなのかとも感じた。返信では、「もう少し様子をみて、本当にダメなら投薬も考える」と伝えた。
その日(5/21)から日曜日(5/25)まで眠ることができた。だが、月曜日(5/26)に研究に対するプレッシャーをかけられて過覚醒してしまい、その夜もまた一睡もできなかった。そこで、自分の心が折れてしまった。
今まで、一睡もできない状態で仕事に向かっていたけど、ネットで「何日連続で寝れないと命に関わる」 など調べているうちに、身の危険を感じて、「体調不良で休む」とボスにメールした。熱もないのに仕事を休んだのは、自分の人生でこれが初めてだった。親には「もし今日寝れたら、明日は仕事にいく」と伝えたが、その日もまた眠ることができず、翌日も仕事を休んだ。
5/15の最初の過覚醒はボスに対する失望が原因だったが、今回の過覚醒は仕事に対するプレッシャーが原因だった。脳は混乱を極めていて、もはやなぜボスにそんなに失望したのかも忘れていて、自分も思い通りに動いてくれない学生に対して怒りを感じるようになっていた。物書き、学生の指導、自分の実験、あまりのdutyの多さに自分のキャパではとてもじゃないけど対処しきれないとパニックになり、眠れない中デスクワークを進めようとした。研究室には「ラボにいる間は可能な限り実験を行うこと」というルールがあり、その「可能な限り」の加減が分からず、ラボにいる間にデスクワークをすることにどこか恐怖心を抱いていた。「デスクワークをしなければならないのに、デスクワークをする時間がない」というのも、自分がパニックになった大きな原因の一つだったように感じる。
二日連続眠れなくて、絶望し、パニックに陥り、「今すぐに仕事を辞めたい」と親に泣きながら伝えた。今まで研究者として頑張っていた自分を両親も応援してくれ、絶対に簡単に辞めさせようとはしなかったが、今回ばかりは母親も少し泣きながら「やめればいいじゃない」と言ってくれた。
カウンセラーさんに言われたことを思い出し、近くの心療内科に電話したが、初診は一ヶ月後だと言われた。それだけ、精神をやられてしまっている人が多いのだと感じた。そのことを聞いて、余計にパニックに陥っていたが、職場の健康管理士さんに連絡したところ、翌日に精神科の先生と面談ができるとメールが入り、予約した。結局、その日も眠れず、三日連続で寝れていない状態だった。
5/29木曜日、精神科の先生と面談し、近くの精神科に紹介状を書いてもらい、翌週に受診できることになった。また、その足で研究室に向かい、ボスとも話した。感情的に癖のあるボスだが、「研究よりも健康の方が大事」と自分の身を案じてくれた。
また「なぜそのような状態に陥ったのか、研究室生活に不満があれば、きっかけとなるような出来事があったのなら教えてほしい」と言われた。少し、憚られたが、自分はきっかけとなったボスの学生への言動、自分が学生時代の研究生活が契機となり複雑性PTSDを抱えていること、また監視へのプレッシャーからデスクワークがしづらくなっていることを伝えた。
ボスは「プレッシャーを感じずに自由に時間配分してくれて構わない」と言ってくれた。その他にも色々話し合って、人事問題に発展するかもしれないからと、第三者も交えてフェアに状況を共有した。とりあえず、来週の受診日までは休むこと、そして受診が終わったら、状況をまた伝えにきてください、そう言われた。
色々と思うところはあったが、とりあえず心理的に落ち着くことができた。眠りはそこまで深くなかったけど、その夜から眠ることができた。
6/3火曜日に精神科を受診した。職場の健康管理士に女性の優しい先生を勧めてもらえた。初診という事もあり、自分が病に至った経緯を学生時代・アメリカ時代・現在と丁寧に聞いてくれた。とりあえず「デエビゴ錠」という睡眠薬を処方してもらえた。うつ病という診断にはならなかった。次の日から仕事に行くという考えもあったが、まだ浅い眠りしか取れておらず、気持ちがついていかなかったので、診断書を書いてもらい、その週いっぱいは休むことにした。その足で職場に向かい、ボスにもそう伝えた。もしかしたら長期休養になるかもしれない、ともボスは考えていたようだった。
一週間休めることが心の救いとなり、ほっとして帰りは五右衛門パスタを食べて帰った。

休むと言っても、研究室に行かないだけで、デスクワークは続けていた。それでも、朝起きる必要はなく、毎日半日以上は休むことができ、だいぶ助かった。薬も効いて、いい感じに寝れた。最初に服用した時は体が宙に浮く感じがあったが、その感覚も最近は無くなってきている。
休んでいる間は、近所を電車で回ったり、映画を見に行ったりした。みんなが働いている中、真っ昼間から近所をぶらぶらしていて不思議な感覚があり、それがおかしくもあった。
6/9月曜日から職場復帰だった。寝れてない最初の期間を含めると、2週間仕事を休んだことになる。復帰前日は睡眠薬を飲んだにも関わらず、過覚醒してしまい、あまり寝れなかった。仕事そのものがパニックの引き金になってしまい、今後何の仕事もできなくなってしまうのではないかと、母に半泣きで吐露した。それでも職場に向かった。
翌日の6/10火曜日は2回目の受診だった。一昨日寝れなかったことを伝えると、頓服薬として弱めの不安薬の「タンドスピロンクエン酸塩」というものを10日間ほど処方してもらった。だが幸い、こちらの薬には現在手をつけずに済んでいて、睡眠薬の方だけ、寝落ちした時以外はほぼ毎日飲んでいる。仕事復帰して以来は休まず通えており、今の所パニックにもならず、睡眠薬の助けもあり眠れている。またボスと話し合った事もあり、以前より自分のデスクに落ち着いて座れるようになった。
また薬により眠れているせいか、薬の副作用なのか分からないが、以前より日中、頭の感受性が鈍くなり、ちょっとしたことで動じなくなった感じがある。薬を飲む前だったらパニックの引き金になっていたようなことが、動じずにいられる。脳が水の中に浸かっていて、刺激が入っても、まずは水に入って刺激が弱まるので、脳に届く頃には耐えられる強さの刺激になっている。
アメリカにいる間、あまりに牧歌的な空間で7年間も仕事を続けていたから気づかなかったが、病を患ってから、自分の脳は刺激に弱くなったのだと思う。学生の頃のブラックラボでは今の職場で受ける刺激の何十倍も濃い刺激が常時頭の中に入ってきた。あの時のせいで、自分は壊れてしまったのだ。アメリカにいる間も、一度だけ、たった一度だけ、仕事のプレッシャーで寝れなくなったことがあったが、留学初期のたった1日だった。いったいどれほど幸せな空間で、自分は7年間も働くことができたのか、その僥倖にしみじみと感謝していた。
病を発症したのは2015年の5月だった。きっかけはMちゃんのお父さんがMちゃんのお母さんをポカポカ叩いているのを見たことだった。ちょっとパニックになって、翌朝から希死念慮が始まった。
奇しくもそれからちょうど10年、薬なしで活動してきたけど、日本のアカデミアの仕事の強度に耐えるにはもう限界だったようだ。自分も年をとった。
現在8月。7月の締切ラッシュを、パニックの原因となった締切ラッシュを全てこなすことができた。ただ、安堵感はあるものの達成感はやや少ないかもしれない。自分がこの締切ラッシュをこなすには、素の自分ではダメで、精神科にかかって、睡眠薬を服薬してドーピングする必要があった。そうじゃないとこなせなかった。自分の体を犠牲にしてまで、ドーピングしてまでこなしたdutyからは、あまりいい味がしなかった。そこまでしてこなすほど、今の仕事に価値があるか自信が持てない。
今後どうなるかは本当にわからない。「まだまだ頑張ってトップジャーナル出して、PI目指すぞ」と感じられる日もあるけど、「今年いっぱいでやめよう」と感じる日もある。そういう不安定な日々を行き来している。
初めて仕事を休んだ時、パニックで眠れなくて、一睡もできていない状態だったが、やることがなくて散歩したりもした。色々なことが頭を駆け巡った。
「日本に帰って仕事がキツくなることは覚悟していたが、でもせめて2年ぐらいは歯を食いしばって頑張ろうと思っていたが、それも叶わなかった」とか「論文数が20本に到達するまではアカデミアをやめずに頑張ろうと思っていたが、それも叶わなかった」とか「今手掛けているプロジェクトをどうやって引き継いでもらおう。あれは凍結保存して、あれはプロジェクトごと潰して…」とか。とにかく数ヶ月以内に辞めることを前提として、それに向けてどうすればいいかを考えていた。今すぐこの眠れない苦しみから逃れたかった。
ただ、不思議と「死のう」とは思わなかった。アメリカにいる間、あれだけ希死念慮に苛まれていた自分だから、こんだけメンタルを崩されると、希死念慮が暴走するのではないかと思ったが、そうではなかった。むしろ、不安ではあったが、アカデミアを辞めた先にある生活に希望を感じていた。もう、土日をボランティアワークで占領される心配がない。自分の時間を自由に使える。週末キャンプに行ったり、一人暮らしを再開して部屋の内装を楽しんだり、いろいろできると思う。アプリで好みの女の子と知り合ったり、エッチなお店にも行ったりしてみたい。研究したかったら、アマチュア研究者として休みの日にでも論文読んだりレビュー書いたり、データベース作成したりできるのではないだろうか。アカデミア監獄から、PIの監視の恐怖から解放される未来には、むしろ希望しか感じられなかった。
ただPIと話し合って、眠れるようになってから、「一刻も早く辞めたい」欲求が少しおさまり、冷静に物事を考えられるようにもなった。「確かにしんどいけど、今の仕事と同等の給料をもらえる仕事を見つけるのも大変そう」とか「アカデミアを辞めたとしても、パニックから逃れられるとも限らないのではないか」とか「自分がアカデミアを辞めてトライしたいことって、頑張ればアカデミアを続けながらでもできるのではないだろうか」とか。仕事を今すぐに辞めることのデメリットも冷静に考えられるようになった。
今まで病院に行かず、一睡もできない日があっても頑張ってラボに来ていたのは、自分のアカデミアキャリを思って、ネガティブな評価を自身に下されないようにしていた面があると思う。だが、今回の一件で自分は名実ともに「病人」になってしまった。いや病人になれたというべきかもしれない。病気を理由に解雇されることもあるかもしれないけど、でもそしたらもうアカデミアを頑張らなくていいし、周囲もその理由にすんなり納得してくれると思う。病気を理由に、常軌を逸した働き方をする必要もなくなる。体調が悪化して辞めざるを得なくなっても、病気を理由に辞めることができる。病気というのは自分自身を守るために、何て便利な言い訳になるのだろうと感じた。
また医療機関と繋がれたことの安心感というのもしみじみと感じている。病を患ってから10年経つが、精神科にかかったのはこれが初めてだった。10年間ずっとしんどかったのによく頑張った。また西洋医学の薬の効果もまざまざと実感する。本当に効果があって、睡眠が大幅に改善する。眠れなくて、何か策はないかと思い、ドラッグストアに効かないアルパノールを求めて彷徨い歩いていた日が、ものすごく不憫に感じられる。
パニックになってからよくなったこととして、仕事に向かうときにえずくことがほとんどなくなってということだ。PIとしっかり話し合ったことがよかったのか、薬を飲み始めた効果なのか、理由はわからないのだが、もしかするとパニックによって「脳が恐怖を感じ切った」のかもしれないと思っている。PTSDでは原因となった抑圧した感情を感じ切ることで良くなることが指摘されている。今回、自分が経験した仕事のプレッシャーからくる恐怖というのは、自分が学生時代にも支配的な教授の元から絶えず感じて、尚且つ抑圧してきたもので、今回パニックがトリガーになってその恐怖心が一気に放出されたのかもしれない。予想でしかないが…
眠れなくてパニックに陥っていた時にでも、自分自身に対して、また母親に対して安心させるためにかけていた言葉がある。それは「時の流れに身を任せるしかない」というものだった。仕事のキツさがプレッシャーでパニックになって、仕事に行けなくなったが、黙っていたとしても締切はやってくるし、契約更新の時期はやってくる。その時が来れば、周囲の人間もどうにかこうにか動いてくれる。だから今すぐどうこうアクションを起こすのでなく、ジタバタするでもなく、ただできることをやり続けて、時の流れに身を任せればいいのである。薬を飲み始めて症状が落ち着きつつある今も、パニックの最中自分を守るために紡ぎ出したこの言葉は、この思いは、変わらずに自分自身の中に留まっている。